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カルヴァンの予定説

キリスト教には、予定説というものがあると世界史で勉強しました。救われる人と救われない人とは、はじめから決まっているという説です。思い切った説であるなと感じていましたが、なんとなく、そうだろうなとも感じていました。

仏教徒としては、キリスト教のひとつの説という認識であり、気になる説ではありながら、深く考えることはありませんでした。

しかし、仏教信仰、法華経信仰、日蓮信仰をしていく中で、また、一時、新宗教団体での活動をしていく中で、救われる人と救われない人がいるという現実を見続けてきました。
 
どうしようもない業を感じるのですね。実は、予定説のとおりなのではないかと感じることが多くなりました。

もちろん、仏教、法華経、日蓮の思想からは、予定説をいう必要はなく、修行すれば、すべての人々は仏の境涯を得ることができるという信仰になるのですが、やはり、予定説が引っかかるのですね。なぜか気になるのですね。

そこで、カルヴァンは予定説について、実際どう言っているか確認してみようと思った次第です。予定説と言われているけれども、カルヴァン自身は、はっきりと救われる人間と救われない人間がはじめから決まっているとは言っていないのではないかと想像していたわけです。
 
ああでもないこうでもないとカルヴァンがいろいろ論じている中で、予定説といえるような言説がそれらしくあるという感じかと思っていたのですね。

しかし、カルヴァンの著作である「キリスト教綱要」を確認すると、

わたくしたちは、予定を、神の永遠の定め(aeternum Dei decretum)と呼びます。この定めに従って、神は、何が、各自に起きるべきかを決定します。なぜなら、すべての人は、同じ状態に創造されていないからです。ある人には、永遠の生命が予定され、ある人には、永遠の滅亡が予定されているからです。

カルヴァン「キリスト教綱要」3.21.5 小平尚道訳 『世界大思想全集(社会・宗教・科学思想篇29)』河出書房新社 153頁

とあります。

予定説そのまんまですね。はじめから決まっているという穏やかな言い方ではなく、神が決定しているのですね。神の決定、それも神の永遠の定めですから、人間がどうのこうのできる問題ではありません。ここまではっきりと予定説を言っているとは思いませんでした。

よく現代の哲学者、思想家にあるように、うだうだ言いながら、結局、何が言いたいのかはっきりしない言説が多い中、カルヴァンは、明確に、明瞭に、一切の誤解を許さない書きっぷりで、永遠の生命が予定されている人間と永遠の滅亡が予定されている人間が神によって決定されていると言います。

すべての人は同じ状態で創造されていないということですから、平等ではないのですね。法華経薬草喩品では、「三草二木の喩え」があり、圧倒的な平等観に貫かれていますが、予定説では、あっさりと救われる人間と救われない人間が分断されています。

法華経信仰をしながらも、カルヴァンの予定説は気になってしまい、なぜか、魅力的にすら感じるのですね。実際は予定説ですよと何かがささやいているように思えてならないわけです。

では、私は、と考えますと、やはり、そこは仏教的な感覚が出てきて、信仰する人間であるから、救われる人間だろうと簡単に判断してしまいます。ここが仏教信仰、法華経信仰、日蓮信仰している人間に特徴的なところなのでしょうね。
 
仮に予定説を採用しても、私は救われる側の人間ですと自分で決定してしまうのですね。キリスト教を信仰しているわけではないので、神が決定するという感覚が今ひとつ分からないのですね。

自分については、予定説であっても救われる側であることは確実としながら、他者を見るときには、この人は救われない側の人ではないかと、予定説が脳裏に湧き出てきます。
 
当然、世の中は、ある意味、不条理ですから、不幸になる人々も多く、その姿を見続けますと、法華経信仰に基づき、すべての人々が成仏できると安易に夢想できないのですね。やはり、予定説でしょう、となるのです。仏教信仰をしつつも、予定説は、気になる説であることは確かです。

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lawful
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