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性加害報道に触れて考えたこと

去年から性加害問題についての報道が多い。それらの記事を読み、さらに関連記事を読み……としているうちにいろんな過去を思いだしてかなりへこんでしまった。

いろんな記事を読んでいるうちに何となく頭の中がぼうっとして毎日が不安だらけになってきて、それはどうしてだろうと考えたとき、そういえばと過去のあるできごとにおもいあたった。

当時、わたしは小学生だった。

いろんな記事を目にしていると上記の過去に加えさらに別のできごとも思いだすことが増えていって、『ああ……』と絶望感に苛まれた。

そして自分の人生を呪いたくなった。

なぜあのとき自分が、よりによって自分が、狙われたのだろう……?

なぜそんな目に私は遭わなければならなかったのか……?

しかも加害者は野放しである。

再犯率は高いというからその加害者はおそらく当時も現在も同じ事をくり返しているのだろうとおもう。

一生引きずるような深い傷を被害者に負わせておきながら、加害者は平気な顔で日常を送っている、この理不尽さ。

なぜ……? という問いがぐるぐると頭の中をめぐっていく。

あんなことさえなければもっと違う人生を歩んでいたはず、と考えてしまう。

いまさら考えても不毛なだけなのに。

捕まえられるものなら今からでも加害者を通報したいくらい。

だけどそれが自分の人生だったのだ、と諦めるしかないのだろう。

そういう目に遭っても、そのことは誰にも話せず、誰にもいえず、傷ついた心を抱えたまま生きていくしかなかった。

悔しいのは、そんな自分の心に長い間、自分自身ですら気づけなかったことだ。

これがとても不思議なところで、自分の心が傷ついた、ということにすら気づいていなかったんですね。

性加害を受けて傷つくなんてあたりまえのことのはずなのに、当の被害者がそれに気づけない、わからない。

これはほんとうにふしぎな機構とおもう。

そんなことはない、というふうにどこかで自分を自分で騙すような、一種の防衛反応なのかもしれない。

たいしたことないんだ、というふうに考えていたのだとおもう。

自分がどれほど傷ついているのか、まったく認識していなかった。

自分は平気だ、と思っているんですね。
ぜんぜん傷ついていない、と感じるんです。

ところがあの一連の報道を目にして、はじめて気づいた。

あれは酷いことだったのだ、と。
酷いことをされて自分は傷ついた。
誰にもいえずそのことを隠して生きてきた。

――ということに。

あれは犯罪行為で、相手は捕まって当然の、酷いことを自分にしたのだということに、やっと気づけた。

気づいたときの衝撃は大きかった。

大げさではなくこれまでの人生がひっくり返るような衝撃でした。

「これまで自分が歩んできたと考えていた『自分の人生』がじつは偽りだった」と気づいてしまうこと。

これがどんなにショックなことか……。

どんなに虚しいことか……。

偽りの感情のまま生きてきた偽りの人生だったということなのだから、

愕然とします。

「酷いことをされて傷ついた、そんな自分を自分でさらに痛めつけるような生き方をしていた」

びっくりしました。

そしてこの混乱した思いや、過去のあれこれを、だれかに話したい、という気持ちが湧いてきた。

しかしいまさら誰かに打ちあけるわけにもいかない。

打ちあけるにしては重すぎる話なのです。

聞かされるほうはたまったものではないだろう。

そして聞く前と聞いた後とでは、私を見る目も変わってしまうことでしょう。

だからだれにも話せない。

こういうときどうすればいいのだろう。
有料で聞いてくれるところはあるのかもしれない。
カウンセラー的な……。

しかしそんな余裕はない。
生活費を稼ぐことで精一杯という状況です。

何とかしてこの重苦しいものから逃れたい。

なにか方法はあるのだろうか。
どうすればいいのだろう。

このごろはずっとそんなことばかり考えている。

どうすれば心が落ちつくのだろう。
だれか教えてほしいという気持ちだ。

つくづく思うのは、過去の傷って厄介だな……ということだ。

いまさら解決できる問題ではないのに、あれこれともやもや考えてしまう。

こういう状態を過去に囚われているというのだろうか。

過去のことは考えず、ひたすら淡々と現在のことに取り組んでいく、そこだけに集中していく。

そういうことでしか解決できないのかもしれない。

なのに、過去をやり直せたら……と、ついおもってしまう。

でもそうじゃない。
たぶん。

いまから人生をやり直す――という気概が必要ということなのかもしれない。

過去のことを反芻するよりも、
前を向いて今を生きる。

できるかなあ……。

あのとき警察に行けばよかった。
しかし当時は幼すぎてそんなことは思いもつかなかった。

「だれかに言ったら殺すよ」

という言葉を真に受けて誰かに話したら殺されると怯えていた。

だから親にも話せなかった。
というより、話すという発想がなかった。

まだ小学生だったから警察へ通報するとか、その方法も知らなかったから……。

そして傷を抱えたままの自分は認知が歪んでいたのだとおもう。
それゆえなのか高校生のころにふたたび被害に遭ってしまう。
小学生のころに受けた被害とはまたちがうものだけど性加害という部分では同じかなとおもう。

それを自分は恋愛なのだと勘違いしていた。
(ということに何十年も経った今になって初めてきづいたわけです)

いまの改正された法律がもし当時あったら、相手は問答無用で捕まっていたこと。
つまりそれはれっきとした犯罪行為だったのだということを、今回の性加害報道によってはじめて知った。

これも大きな衝撃だった。

あれは恋愛ではなく犯罪行為だったのだと気づいたとき、まるで伏線回収するかのような感じで、ああ、あれもこれもそれも、たしかに犯罪だったじゃん、とおもった。殴られたり、首を絞められたり、監禁されたりしたこともあった。

どうしてあれを恋愛と思えたのか。

十代だった自分は幼かったということを加味してもふしぎなことだと感じてしまう。

ふり返ると明らかに恋愛ではないのだが、どうして気づけなかったのか。

だが相手は違う。自分のやっていることをはっきり自覚してたはずだ。

そういったもろもろにやっと気づくことができた。

自分はすでに結婚して子供もいる。

明確に覚えているのは、自分にとって結婚相手は恋愛対象ではなく精神安定剤だと考えていたことだ。

ということは、これまで自分はいちども恋愛をしたことがなかったのだ、ということにも気づけた。

それまで経験してきたことはどれもまともな恋愛ではなく、愛し合っていたとはいえないような関係だったのだな……と。

虚しいのは、それに気づけても、いまから恋愛はできないということ。

年齢的にそんなことは起こりえない。

恋愛すらしらずに一生を終えるのか……と考えると虚しい。

こんなはずじゃなかったと思ってしまう、かなしい人生だった。

とはいえ、いいことだってたくさんあったはずだから、虚しいなんて考えたらバチがあたるかも。

これからは……?

せめてこれからはもう少し違う人生にしたい。

自分を偽らずに、生きてみたい。
――と書いたとたん胸がずきんとして怖い気持ちが湧いてくる。
それはとても怖いことだ。

自分を隠していれば安心、安全だ、という気持ちがある。

そこから踏み出すのはとても怖い。

ずっとずっと、嘘ばかりの人生だった。
隠すことばかりに必死になっていたような気がする。

つねに緊張して相手の反応を窺って、自分が主張するのはよくない、自分ががまんすればよいのだ、と思って生きてきた。

そんな生き方はやめようよ、と理屈として頭では考える。
疲れるだけ。
そんな生き方をしているからいつも不安で楽しめないし、ストレスで髪も抜ける。

でもやめ方がわからないし、
どうすればちがう生き方ができるのかもわからない。

自分の人生って何だったのだろう。

そんなことを本気で考えてしまうのは、暇だってことなのだろうか。

一つおもったのは、負荷がかかったときに思考停止するのはやめたい、ということ。

「これ以上考えるはやめよう」とすぐに忘れてしまう癖があるような気がする。

「記憶の底に沈めてこのことはもう二度と思いださず、考えることもせず、忘れよう」

そんなことばかり繰り返してきた気がする。

この考え方をやめるにはどうすればいいのだろうか。

性加害報道の記事を読んで認識をあらたにしたといっても、気づくまでの長い年月のあいだ、ずっと、そういう考え方で生きてきたのだ。

この考え方の癖、変えられるものなのだろうか。

もっと早く気づきたかった。
二十代のころに、いや、せめて、三十代のころに気づくことができていたら、やり直しもきいたかもしれない。

だけどもう遅い。
年を重ねた自分に残された時間は少ない。
やり直しどころかリミットが近づいている。

いつかきっと、いつかきっと……とおもっているうちに、
そんな年になってしまっている。

いろんなことを考えていると不安がわき上がってきた。
落ちつかなくてついnoteに書いてしまった。

不安に感じる気持ちから逃げず、その原因や中身をしっかり考えなきゃいけないですね。

これからは、思考停止はやめようと思う。

万が一ここまで読んでくださった方がおられたとしたら、ありがとうございました。

おやすみなさい。








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