自分の過去を思い出す〜のび太の新恐竜〜
キューが群れに入れず仲間から傷つけられる
たった1つのワンシーンだ。
これは単純に悲しかった。何とも切ない気持ちにならざるを得なかった。
ようやく仲間を見つけたのび太たち。キューと同じ種族の恐竜らは楽しそうに空を飛び、大地を駆け回っている。
双子の片割れであるミューはすぐに仲間と打ち解けられた。
恐る恐るキューも「僕も入れて…」と近づく。しかし、群の1匹に「来るな!」と牙を向けられ血を流してしまう。
なぜか?
それは他の仲間にできることを自分は
“できないから”
である。
人間の世界でも同じような出来事が起こる。特に子どもの世界では如実である。サッカーをやりたいがそれだけの実力がない。実力がないから「お前はくるな」と仲間外れにされる。
傷を負ったキューは目を見開き、のび太の言葉にハッとする。
自分は「背が低く」「尻尾が短く」「空を飛べない」ことに。
今まではのび太が励ましてくれたから、そこに甘えられた。双子のミューと比べる自分もいなかった。そこには優しいのび太がいたから。しかし、現実を突きつけられ、初めて気づいた。こんなにもできない自分がいることに。
私も同じような経験がある。
それが今年だ。なぜか。それは私がおごっていたからだ。自分の実力を高く、そして甘えていた。自分はできていると思っていた。しかし、管理職から現実を突きつけられ、初めて真の自分の実力に気づけたのだ。できなくとものび太がいるから大丈夫、甘えられる。(できなくとも、本がある、これまでの修業がある、そこに立ち返れる。)
しかし、現実は厳しい。
飛ぼうとしても何度やっても失敗する。
大丈夫。のび太がいるから。励ましてくれるさ。そう思い、顔を上げる。
しかし、それはいつもののび太ではない。
「できない自分を責める」のび太の姿がそこにいた。
「どうしてできないんだ!」「大丈夫。“みんなできる”からキューもできるよ。」
そんな言葉が「できない自分」にさらに追い討ちをかける。いつもの優しいのび太はそこにいなかったのだ。
ここでも私は過去の自分を思い出した。
頑張っても頑張っても自分の“できないことばかり”を見つめる自分がいる。
子どもを見れていない、あれも直さなきゃこれも直さなきゃ、3年目だからこのままじゃああの人みたいになれないぞ。そう自分のマイナス面しか見ていなかった自分がいた。
自分を励ましてくれる存在はいた。しかし、その存在から責められるのは初めてだった。失敗を次に活かす。事務的な面ではできる。すぐに改善策が思いつくからだ。
しかし、答えがない課題に対してはどうしようもなかった。まず何をして、次にどうすればいいのか。わからないから、わからないなりに自分だけでもがく。
だから、心が鷲掴みにされるように迷い、身体が動かなくなる。管理職の言うような完璧を求めようとするのだ。ピリッとした姿に変え、声や表情、立ち方まで自分ではない自分であろうとする。
完璧な教師を目指している自分がそこにはいた。
だが今の私は明らかに違う。
私らしく、楽しくいられている。おっちょこちょいで、忘れん坊で、いじられキャラで、でも頑張り屋で、誠実で、真面目で、少し抜けている私がいる。ダンスが好きで、思い立ったら行動して、楽しかったら笑って、怒るときは声に出して、悲しいときは涙をシクシク流す私がいる。
少しずつ私という一人の人間と向き合えてきているのだ。
感性が磨かれてきた証拠だ。
自信がないのも私であり、自信を持とうと無理するのも私であり、できないところばかり見る私もいて、できたところを誰かに認められたときにんまりと嬉しい気持ちをそっと出す私もいる。
そんな“厳しくあろうとする私”と“感情豊かに心寄り添える私”は1つの心のホームに住んでいる。
部屋は1つだけ。
厳しい面ばかりが出るときもある。
そんな私をもう一人の私が「もういいよ。一旦休みな。今度は私が出るから。」と宥める。
2人は協力しあっているのだ。
お互いに変わりばんこで。無理しなくていい。楽しく、笑っていこう。
たっ1つの映画の、ただ1つのワンシーンにここまで考えさせられる。気づかされる。
有り難いなぁ^ ^