ただサラダ菜をもぎっただけの朝ごはん
昨日買ってきたサニーレタスの根元に、ちょっと土がついている。「ああ、サニーだな」と思いながらキッチンで洗い流す。本当のところ、サニーレタスの名前の由来なんてしらないし、土がついているのが普通なのか稀なのかも知らない。でも、たまに「いい名前だな」と感じる言葉があって、それだけのことで一瞬の気持ちの高揚とポジティブなエネルギーが湧いてくる。
語感がいい、それだけのことなのかもしれない。そして、それを勝手な想像力で何かに結び付けてしまうのは、癖なんだろう。案外、日本人にはそういう発想をする人が多いんじゃないかなとも思っている。
例えば国語のテストで、「読めるけど書けねぇよ」と嘆くのに近い。漢字を(今回の場合はカタカナだけど)見たときに、字面を言葉と絵の両方で自然と感じ取る。だから、書いてあることを頭の中で即座に分類してから、読み方を思い出す。そこには自分の偏見と知識と想像との組み合わせがあって、芸人さんなら笑いに、歌手なら詩的に、セールスマンなら社交的に味付けされるだろう。子供には子供の味付けがある。
わたしは英語が苦手だけれど、そのことにも関係ある気がしている。アルファベットの並びにイメージが直結しないからだ。でも、カタカナ英語で見せられると、勝手に「ああ、あそこで見た気がする」と分類して、大体の内容を予測する。そうでも無ければ、態々、カタカナ英語なんて回りくどい方法を取らなくてもいいだろうから。
だから、好きな海外アーティストの名前や美味しかった輸入食品名は、意味もわからないままでも覚えていたり、英語の綴りを書けたりするのだ。
ここまで考えて、朝からわたしは何をしているんだと、サニーレタスの水気を切りながら可笑しくなる。これが「サニーの効果」だろう。
連想したのは、太陽と大地の色。土の匂い。漫画のワンピースと麦わら帽子と海賊船。
ただ、一緒に買ってきたチンゲン菜には、何も感じない。想像力もある程度のところで自動的にブレーキが掛かるようだ。人間は、凄いな。