はじめましての方へ。少し深めの自己紹介記事をつくりました。
はじめまして。美容室『らふる』の代表をしている中村と言います。
「どうして美容師になったのか?」
美容師として働いていると、この質問をよくいただきます。この質問をいただいた時に、一言で明確な理由をお返しすることは難しいなと毎回思うんです。
なぜなら、振り返ってみると、なにか強い目的意識や憧れがあって、この職業を選んだわけではないからです。
おそらく、美容師を目指したきっかけは高校生の頃でした。
僕は小学生からサッカーをやっていて、中学ではクラブチームに入り、高校は全国選手権にも出場する強豪校(当時は)のサッカー部に所属していました。いわゆる、サッカー少年です。
当時の僕の髪型は、ずっと坊主。
*中学3年。マッチアップは現広島の柏くん
僕の髪は癖が強い天然パーマで、スポーツ刈りにして貰えばゴルゴ松本さん。伸びてくれば全盛期のトシちゃんにしかならず、気に入った髪型に出会うことが出来ずにいました。(お二人に罪はありません。ごめんなさい🙏)
※小学校の卒業式。ピースしているメガネくんが僕。
いつもパッとしない髪型なうえ、それならばいっそ、坊主のほうが楽でいい。父親の容赦ないバリカンが、めちゃくちゃ痛かったのを思い出します。
厳格な決まりが部活にあったわけでもなく、単純に髪型が決まらなかっただけ。坊主にしていた理由はそんなものです。
内心、爽やかでモテそうな、カッコいい髪型に憧れていました。笑
高校時代、部活仲間から「髪を伸ばしたら、絶対にモテるよ」と言われ続けたことをきっかけに、僕自身も坊主からそろそろ卒業を考え始めました。
母が通っている美容室のスタイリストの腕が素晴らしいと、そこでヘアカットすることを薦められ、行ってみることにしました。
すると、あれだけ決まらなかった僕のヘアスタイルが、ワックスなるものをつければ、嘘みたいに決まるじゃないか。周りからの反応も上々で、遂にモテ期がやってきました(あれはモテ期であったと信じたい)。
髪型ひとつで、ここまで変わるものかと、自分でも驚きました。
サッカー選手になる夢への挫折
そんな高校生活を過ごしていた僕ですが、高校2年の冬、大きな挫折を味わいます。
それは、サッカー選手になる夢を諦めたこと。
小学生の頃から下手くそながらもサッカーを熱心にやってきました。その理由は、「プロになる」というゴールをいつも思い描いていたためです。
とにかく上手くなりたくて、心底熱中して、努力を努力と思わぬくらい真剣にのめり込み、毎日ひたすらサッカーに向き合い続けていたと思います。授業中だろうと、家の中だろうと常にボールを触っていたほどです。
ですが、僕が高校2年生の時にチームは冬の全国選手権に出場したのですが、第一回戦の相手にチームは大敗しました。そして、その時の僕は、ベンチにも入れず、観客席で応援していたのです。
現実から目を背けていたつもりはありませんでした。しかし、プロを目指しているにも関わらず、高2の段階でベンチにも入れていない。しかも、チームはボロ負け。プロという目標から、いかに自分が遠く離れているかというコトを、まざまざと見せつけられました。
理想と現実のギャップ。周囲の評価の低さに耐えられなくなってしまったその瞬間、自分の中にあった情熱がしぼんでいく感覚。そして、高三の春にやっとの思いでもぎ取ったレギュラーの座も膝の怪我がトドメとなり、夢を諦めてしまいました。
僕は、生真面目な性格でもあって、明確なゴールがあると頑張れます。しかし、それがないと気力が全くわかない。なんとなく頑張ることができない性分なのです。小さな頃から、こじつけでもなんでも、明確なゴールや目的、使命が見つけられないとうまく動けないのです。
高校3年生になり、同級生たちは猛烈に受験勉強をはじめていましたが、それまでプロサッカー選手を目指していた僕は、夢がなくなり、大学に行く理由を見つけられませんでした。どの大学に行き、どんな学部や学科で何を学びたいのかが全く浮かばず、何も決められませんでした。
なんとなく大学入学というのも、ちょっと違うとも思いましたし、こんな中途半端な状態で受験勉強を頑張りきれるとも思えませんでした。
そんな時に、「ちょっといいかも」と思えたのが、美容師になる選択肢です。
バイトして稼いだお金を注ぎ込み、オシャレをすることが唯一、楽しかった。そのためには、なぜかバイトは頑張れたんです。生涯を通して、おしゃれが楽しめる仕事で真っ先に浮かんだのが「美容師」でした。
前述したように、髪型を整えることで起こる変化を体験し、自分も美容師になって誰かを幸せにしたいと自然と思うようになっていたんです。
なかなか見つからない、自分の軸
美容師を目指すと決めたものの、美容師として有名になりたいとか、何か明確な目標があったわけではありません。僕の地元は山梨ですが、県内の美容学校に通って、地元の美容院で働けたらいいかくらいの気持ちでした。
ただ、母親にそのことを告げると、「せっかく美容師を目指すなら、美容師の本場で勉強をしてきなさい」と説得され、東京の美容学校に通うことになりました。
今思うと、その母親の提案がなければ、僕の人生は大きく変わっていたでしょう。山梨の田舎で育ってきた僕にとって、はじめて住む東京は別世界のように感じました。舐められたらいけねぇ。そんな気持ちでいっぱいだったことが昨日のことのように思い出されます。
僕は学生寮で暮らしていたのですが、同じフロアに住む学生たちは個性的で、自分の世界観を持っているヤツばかりでした。
服飾の学校に通っている寮生は、自分でブランドを立ち上げて、こんなファッションを広めたいと語ったり。美容学校に通っている寮生は、すでに自分が働きたいサロンがあり、そこで働くために自分の腕やセンスをそこに合わせて磨いていたり。
そういう自分の軸を持っている仲間たちに対し、僕も彼らのようにならねばと焦りを感じる毎日。
でも、簡単に自分の軸なんて見つかりません。
学生時代は、いろんなジャンルのファッションや音楽、カルチャーに手を出しては、「あれもいい、これもいい」「あれも違う、これも違う」と迷走の連続。髪型も服装もいろんなものに手を出しましたが、個性的であればいいとチグハグで、おしゃれとは程遠かったと思います。笑
とにかく毎日もがいてもがいて、ファッションに触れ、音楽に触れ、カルチャーに触れ、それをカットコンテスト用のデザインに落とし込もうと毎日必死でした。ただ、ひたすらデザインを起こし、ウィッグと向き合う日々。
※迷走しまくっていた美容学生時代
サッカーへの情熱は、いつしかカッコいいヘアデザインを作ることへ変わり、バイト代は洋服ではなく、画材とウィッグに消えていくようになりました。
そんな美容学校も卒業を迎え、代官山の美容院で働くことに決まりました。
実は、同じ代官山にある別の美容室で働きたかったのですが、そこは中途採用しかしておらず、その店で働くための経験を積むために、腰掛けのつもりで入社したんです。生意気ですね。
早く自分の技術や経験を高め、憧れのサロンに移りたいと思っていたので、毎日一生懸命働いていました。
ですが、そうやって働いているうちに、先輩美容師の独立や退職が続き、辞めるにやめられなくなりました。育ててくれたお店への情もあるし、一緒に働いている後輩たちが気がかりでもあります。結果的に、その店では4年目から店長となり、まる8年勤めることとなりました。
“手放す”ことを教えてくれた『禅』
代官山のお店では、美容師としての技術も、店長としての経験も、オーガニック商品についての知識も、本当にいろんなことを学ばせてもらいました。スタッフにも恵まれ、いい同僚や後輩に囲まれて、働くことができました。
ただ、店長として切り盛りする中で、モヤモヤとした違和感を感じていたのも事実。
そのモヤモヤの要因は、お店としてのビジョンがわからなかったことです。
美容師は技術職なので、腕がしっかりとあれば、お客様はついてきてくれると、ほとんどの美容師は思っています。それも確かにそう言えるでしょう。美容室とは、個人事業主の集まりのような側面もあって、腕のいい美容師は次々と独立していきます。
ですが、僕は目指したいゴールがあると頑張れますが、それがないと気力が全くわかない質。
お店としてどうなりたいか、どうありたいのかが見えない中で、店長として振舞っていくことにストレスを感じるようになりました。目的地が見えない暗闇の中で、必死に舵取りをしているような感覚でした。スタッフみんなとどう一丸となれば良いのかわからぬ日々はとても辛く、オーナーともよく揉めていました。
そんな時、心の不安を拭ってくれのが「禅」です。
世界中の有名な経営者の人たちが禅にハマっているという話を聞き、自分より大変な境遇にあるはずの人たちが、心穏やかに働けているのは禅からの学びがあるからではないかと興味を持ったんです。そして、本を読んだり、お寺で開かれる座禅会に参加するようになりました。
禅の教えを受けると、「手放しなさい」という言葉がよく登場します。
この世で起こることは、良いことも悪いことも、様々な縁が積み重なって起こるもの。自分ひとりの力で何かをコントロールできることなんて到底できず、「絶対にこれを達成する」「こうならないといけない」といった執着を捨て去ることが大切という教えがあります。
それまでの僕は「こうすべき」という思い込みや、ゴールを掲げてそれに向かって走らないといけないという強迫観念に縛られていたように思います。そういった執着が禅を学ぶうちに、少しずつ薄れていきました。
“Want”ではなく、”Just Be”を心に
手放すことを意識するようになってから、いろんなことをスタッフに委ねるようになっていきました。そして、店長である僕が独立することが、後輩たちの成長をより促す機会になるのではないかと考えるようになりました。
そうして、代官山の店を退職し、創業したのが「らふる」です。
らふるでは「くらしを紡ぎ、笑顔をつなぐ」を理念を掲げていますが、これは「こういうことをしたい」という”Want”ではなく、「こういう存在であり続けたい」という”Just Be”の考えで定めています。
ゴールを定めて一生懸命に走るというよりも、自然体のまま自分たちらしくあり続けることが、大切と今は感じています。
もちろん、目標は持っていますし、全く変わらないわけではありません。むしろ変わっていくことの方が必然だと思っています。
様々な人たちから学び、影響を受けて、自分たちのスタイルを柔軟に変化させていく。無理な変化ではなく自然に自然に。
同時に、『らふる 其の二』を開業したように、新しい可能性を広げるための挑戦もしていきます。ただ、どんな時も、「くらしを紡ぎ、笑顔をつなぐ」であり続けるという軸からは決してブレない。それが「らふる」の目指す姿だと考えています。
学生時代のころ、探しても見つからなかった自分の軸が、30代を迎えて、ようやく見えてきました。
こうやって振り返ってみると、本当に色々な人との出会いや縁がきっかけで、今の自分に辿り着いたのだなぁと思います。スタッフやお客様をはじめ、これまでに自分が会ってきた様々な人たちとの繋がりがあって、今の「らふる 」があるのだと感じます。
ようやく軸が見え、改めて美容師という仕事に就いて良かったなぁと感じます。
これからも色々と迷うことも、間違えることもあるでしょうが、人との縁を大切にしながら、一期一会の気持ちで、自分らしくやっていきます。
編集協力: 井手 桂司