病む力
むかし、思ったことがある。
病むこともひとつの自己表現だな、と。
頭が痛い。
からだが重い。
気分が落ち込む。
そんな不調の奥底には、普段気付かずに、あるいは意識的に通り過ぎている体や心の訴えがある。
デスクワークし過ぎだよ。首や肩に負担がかかってるよ。
最近、睡眠時間足りてないんじゃない? そろそろしっかり休もうよ。
ずっと緊張しっぱなしで、ナーバスになってるよ。ちょっとほっとできる時間を作ろううよ。
そうやって伝えてくれる声があるから、渋々ながらでも、足を止められるときというのがある。
痛みや苦痛は煩わしいが、本来必要があって生まれたものだ。
そういえば以前、建物の構造体にファイバーを張り巡らして、老朽化が進む前にどこが「痛がっているか」知ることで、建築物をいい状態で長く維持していこう、という趣旨の研究をしている人がいた。
わたしたちの体は幸いにして、生まれながらにそういった機能を持っている。
そういった機能のおかげで、ある日突然動けなくなったり、最悪の場合命を落としてしまったり、といったリスクを、極力小さく抑えられるように設計されている。
そう考えれば、病むことはそのまま、生き延びるための自己主張だといえるような気がした。
(もちろん、そういった類のものとは違う、命に関わる病もまた多くあるのだけれど)
最近は、そんなふうに考えた過去も忘れていた。
しかしついこの間ふと、病むことは一種の才能なのでは、ということを思った。
主治医と話していたときだ。
解離は女性の方が得意である、という話になった。
ジキルとハイドは男だったが、実際の臨床では、解離を起こすのは圧倒的に女性が多いのだという。
確かに、わたしが救急外来などで接触したことのある患者さんも、思い出す限り皆女性だ。わたしを含め。
そうして女性の中でも、解離傾向が強い人、弱い人がいるのだという。
「じゃあ、解離できるのも一種の才能みたいなもんなんですね」
ついそんなふうに、「才能」なんて言葉を選んだのは、解離は本来的には、心を守るためのシェルターとして生じた心の働きなのだろう、という認識が、わたしの中に勝手に出来上がっていたからなのだと思う。
だから、問いを口にしたとき、既になんとなく答えはわかっていたはずだ。
「男の人は解離できないなら、心がしんどくて仕方なくなった時は、どうなるんですか」
「まぁそれは……心が壊れてしまうとか、そういうことになりますね」
「しんどいですね」
「しんどいですよ」
解離できない心。
逃げ場のない苦しみの中で、心が壊れてしまったり、命を絶ってしまったり。
そういう人を思うと、病を得るという弱さは、弱くなっても生きながらえていられるというしぶとさと、地続きなのではないかとも思えた。
病むことによる苦しみというのも、確かにある。けれど生きている。
辛くても、自分がなくなってしまう手前で、踏み止まっている。
壊れ切ってしまう手前で、ちゃんと、自分の苦しみを見つけてあげられたから。
抱えきれない辛さを、病というかたちであっても、外に出せたから。
わたしたちには病む力があったから、生きている。
そういう見方も、できないだろうか。
病の底にいると、自分を情けなく感じて、責めたくなるときもある。
けれど、これもまた自分の身体に備わる、生き物としての防衛機構なのだと思えば。生存のための戦略なのだと思えば。
病を得ていることも決して、悪いばかりではないと思えるような気がする。
気休めであっても、今はそういう気休めを、大切にしていきたい。
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