『孤独』と『0.08』
私は疑問に思う。
人々の暖かな輪がキラキラと輝いて映るのに、
時たま、とても寂しいものだと感じてしまう。
私はその感傷に『孤独』って名前をつけて、隣同士あなたとさくらんぼ、じゃなくてビールをのんだりしているよ、ってお話を以前に執筆してみた。
孤独は、いつも隣いる。
どうしようもなく目障りに映るときもあれば、まったく存在が気にならないときもある。
どうしようもなく愛おしい瞬間もある。
まるでシーソーの両端がギッコンバッタンと揺れるように。
孤独に対して思うことは、いつも一定じゃない。
だから、孤独を『確定』しようとも、すぐにスルリと抜け出してしまって、いよいよ捕まらない。
『言葉』の中に閉じ込めたつもりでも、いつのまにかそこから脱獄してきては、すぐ隣に居る。
居るかいないかで言ったらずっと居るんだけど、要は「自分が見ようとする」ことで、やっと認識ができる。
「いやでも見えてしまう」って表現をよく聞く。
「孤独に押しつぶされる」って表現もよくある。
でも、その実、まだちゃんと見ようとしてないんじゃないか、って私は思う。
きっと自分の真上にのしかかった孤独のカタチを見つめたくなくて。
触れたくなくて。
ずっと下でうずくまるしかなくなってる。
孤独も寂しがり屋だから、意固地になって、ずっといる。
掛け布団の上に居座って、あなたと目が合うのをじっとまっている。
俺を認めろ、私を認めろって。
互いの存在を認めあえたら、孤独はふとんの上から降りて、あなたと一緒に布団の中で抱きしめてくれる。
孤独は、そういう天邪鬼なやつなんだ。
認めない時は、ずっと苦しめて。
認めると、途端に優しくなる。
そういう二面性をもってる。
・・・
人との交流は、その実とても怖い。
私は、とてもふわふわしている人間だ。
いやそうは見えないかもしれない。
確かに、目標とか、やりたい事とか、仲良くしたいなって思っている人とか、そういうのは明確にしている。
プロフィール欄にも、私が何を目指しているかしっかり載っけている。
過去に何度も決意表明をしてる。
その通りに突き進んでもいる。
ひとつの夢も叶えた。次の夢も増えた。
「生きていく」ことは明確にしているけれど、私は、ずっと私っていう人間について、核心が持てずにいる。
どこまでもコントロール不可能で、書く言葉と、話す言葉が一致せず。
たまに我を失って、時に赤子みたいに泣きじゃくる不安定さを、人前に晒すことがこの上なく怖い。
誰かに言葉を送る時、多分わたしは人の100倍は考える。
正直、「100倍考えてそれかよ」って感想が自分に対して浮かんでくる。
悲しいことに、元の数が限りなく薄く小さい私にとって、100倍くらいはかけてやらないとマトモな返答に仕上がらない。
もともと「0.01」くらいしか、私がない。
でも「0.01」じゃ伝わらないから、100をかけて、やっと凡人になれる。
「0.01」が何を意味しているのか。
それくらい、私が自分自身を「何者」なのかが分かってない、ということ。
私が私だ、って核心が持てる部分が1%くらいしかない。
だからその1%を目一杯ひきのばして、なんとか100%にする。
そうしてやっと人に伝えられる代物が出来上がる。
だから、返信は遅いし、たまに見当違いの答えが引き伸ばされて、誤解されることがとても多い。
「あなたはこういう人」ってたくさん決めつけられて、0.01な私が真に受けては「そういう人」であろうとしちゃう。
でも、誤解されててもいいと思う。
たくさんの「そういう人であれ」は、結果的に多少の生きやすさにもつながっている。
誤解されてていい。そのほうが楽なのだ。
・・・
ふと思いつく。
「自分をもっている人」っていうのは、そもそも拡大しなくてもいいんじゃないかって。
等身大、なのかもしれない。
「ありのままに~」で有名なあの一説が頭に浮かぶ。
きっと100%は100%のままに。
もしくは100%から180%くらいに伸ばして、より魅力的に映る。
やさしさも、厳粛さも、暖かさも、正義感も。
ありのままのその人に、さらに磨きがかかって、煌めいて映る。
自分を十分に理解して「らしさ」を身につけている人の周りには、人が集まっている。
とまり木を探す鳥や蝶は、不安定な足場を嫌う。
いくら私が、0.01の自分を引き延ばせたとして、0.99の部分はスライムみたいにブヨブヨかもしれない。
当然、鳥や蝶たちの反応はよくない。
さらにいってしまえば、この核のように見えている「0.01」の部分だって、私にとっては「核」なのかどうかすら核心がない。
文字通り、核心がない。
だから、いつも怯えている。
怖くてたまらない思いをしながら、なんとか言葉を頭の中で結びつけて、いい答えを探す。
そのためにたくさん学んできたし、教えられてきたし、失敗も繰り返してきた。
おかげで見様見真似は得意になった。
私の核は、ますますわからなくなった。
・・・
自分を持つ人は、返答に淀みがない。
淀みというのは、なにもドモッたりとか、ふわふわした返答になるとか、滑舌の問題、って意味じゃない。
むしろ、ゆっくり喋る人も、優柔不断な口調も、みな、自分を持っているから人から愛される。
「優柔不断な自分」も立派な「自分」なのだ。
淀みのないところに、人は自然と集まり、コミュニティを築く。
それがキラキラと輝いて、キレイで、憧れで。
それをテレビ中継を見るみたいに、孤独の横で私は眺める。
現在、読み進めている書籍なんかには、小学生時代の友人たちと同窓会をしようと盛り上がるシーンなんかでてくる。
(今の時期だと、わりと特定できそうな内容だね?)
そこで、みんなが共鳴しあって、積極的に輪を作る。
引っ込み思案なあの人も、光に吸い寄せられるように、輪に入っていく。
もし、自分がそんなシーンに入り込んだのなら、例に漏れず私も輪の一部になっていると思う。
だけど、たぶん心は置いてけぼりだろうなって。
「0.01」を、心の奥底にある子ども部屋なんかに閉じ込めて、「今日は帰りが遅くなるから」って書き置きとともに1000円札を2枚おいていくみたいな心境で、輪に向かっていくのだと思う。
だからいつも、どこか他人事で、不可解で、そんな自分がどこまでも信じられなくて、正気に戻してやりたくなる。
でも、どちらが正気かなんかもまったく判断がつかなくて、私の堂々巡りは終わること無く続く。
輪の中で笑っている「私」は、一体誰なんだろう。
・・・
いまこの文章はソルフェジオ・ヒーリングってBGMを聞きながら、書いている。
528Hzという特殊な周波数が、人の心と体によい効果を働きかけるのだという。
初めて知った周波数だった。
ヘルツって聞くと、最近の私の頭の中には常に「52ヘルツのくじらたち」しか浮かんでいなかったから。
町田そのこさんのこの書籍についても、いずれ感想を書きたい。
思い出しただけで、体が震える最高の作品。
52ヘルツはどこまで孤独な周波数だった。
そんな孤独な「52」のおしりに「8」をくっつけると、たくさんの人に聞こえるようになって、「安心」を共有できる音になる。528。ソルフェジオ周波数。
「8」は不思議。
それ自体がウロボロスの輪みたいにくるくると巡っていて、まるで自己完結をしているような数字。
大富豪ってゲームだと、8切りなんてルールがあって、どんなに美しい流れであってもピタリと停めてしまう効果があったり。
そこで時が永遠に巡ってしまうように、くるくると、くるくると。
8が、だんだんとチューブをぎゅるりと捻ったようなカタチに見えてきた。その中に液体を通したら、どこまでも同じ景色を流れ続けるんだろう。
ウォータースライダーに飛び込んだまま、自由に流されるあの時間が永遠に続いちゃうのなら。
子供だったら、わくわくするね。
でも大人からしたら、たまったものじゃないかも。
「八」って漢字にすると、不思議とその存在が2つに分かたれる。
左側の「ノ」と 右側の「\」。
ふたつが出会うことは、よほど字が汚い人が書かない限り、ない。
でも、付かず離れず、UTFの文字コード2bite分に収まる範疇で互いが存在しあってる。
触れられないけれど、触れられそうな距離。
ふたりともばらばらに、自分の中でぐるぐると循環させてるのかな。
お互いが見えていながら、繋がることがない。
でも確かにスペースの中に、ふたつがあって「八」。
まるで、モニター越しの人々を見る「私」みたいだなって一瞬おもった。
私の中には疑念がずっと渦巻いていて。
子供部屋から「他」を見つめる私には全てが絵空事のように映ってしまって。
でも確かに、「他」の中に「人」が存在することを知覚していて。
社会は、そんな人々の働きでどうしようもなく発展していて。
わたしも社会の恩恵を受けながら、生きている。息をしている。
「8」として生きている。
「八」の片方として世界を見ている。
左側の「ノ」な「私」と、右側の「\」な「社会」。
「私」の自問自答は一生続いているけれど、「社会」はそれを認知することなく、歴史を前に、前に進めていく。
この場合、社会っていうのは「等身大で滑らかなコミュニケーションをする人々」。
それを私は社会って呼んでいる。
美しい。
でも、きっと私がそこに加わっていくには、私の心はやはりどこかに置いておかなくちゃいけない。
それが寂しいとか悲しいとか、ありきたりな感情や感傷に押し込めれるなら、まだマシだったかもしれない。
「0.01」な私には、わたし自身がどう思っているのかすら、核心を掴めずにいる。
・・・
ゆらゆらと他愛もない言葉遊びに興じる。
孤独な「52ヘルツ」の数字。
他のクジラには聞き取れない、52ヘルツの鳴き声をもつ世界に一匹だけのクジラは、この世で一番孤独な存在。
そんな「52」のおしりに「8」をくっつけた。
「52」も「8」も、どうしようもなく孤独な数字なのに、くっつけると、安心や、安らぎの音になる。
でも実際には文字はくっついていない。
5と2と8だ。
「ごひゃくにじゅうはち」と書けば、混ざりあったことになるのだろうか。
「ごにはち」ではなんだか物寂しい気もするし。
だけど間に「ひゃく」と「じゅう」が入ってきているのは、なんだかいただけない。
だって君たちは誰とでも仲良くできるじゃないか。
1~9まで、平等に仲が良くしている。ずるいではないか。
「等身大」や「ありのまま」に過ごしても許されている。
彼らに、果たして孤独な「52」や「8」の気持ちを察することができるのかな、なんて疑問に思う。
「ひゃく」と「じゅう」には、もっと輝ける場所に行ってほしいと思った。
あっちにいって。
あなたたちは、あなたたちで煌めいて頂戴。
そう思うと「ごにはち」と呼んであげるのが、優しい気がした。
「はち」と聞くとBeeを思い浮かべる。
はち、集団生活を象徴するような。最たる例だと思った。
ぜんぜん孤独じゃない。
常に嬢王蜂の周囲は子分たちで覆われていて、彼らには孤独を感じる余裕もない。
ぜんぜん「八」じゃない。
それに作る巣だって六角形じゃないか。
これも「八」じゃない。
それどころか隣り合った巣同士が「六」の一部を共有してるじゃないか。
繋がる数字。連なる数字。
「六」はまさに社会のための数字に思えてきた。
「はち」じゃなくて、「ろく」のほうが良かったんじゃないかな?
わたしはbeeを「はち」って名付けた人に、ちょっとだけ疑問を感じた。
センスがない気がする。
でもハチは「八」って漢字とは別だ。蜂だから、八じゃない。
別物だと思うと、少しだけ気持ちが晴れた。
蜂が、はち、であることを許そう。
寛容な心を取り戻して、満足する。
だんだんと、「八」という数字が愛おしくなってきた。
「八」のように別々にありながら、わたしは確かに社会の中で生きている。
「8」、「八」。
そうか、私は8という数字がスキらしいことが分かった。ちょっとした執着が芽生えてきた。
さっき私は、たった「0.01」しか自分が分からないって説明したけど、訂正しよう。
「0.08」くらいにしておこう。
それがいい。
心の最奥の子供部屋から、歓喜の声が上がった気がした。
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