なんちゃって悟りの境地
猫暮、これまで、荒唐無稽なことを考える人、と、自分自身のことを認識していました。
でも自分の中だけに生み出されていたオリジナル論の数々は、既にいくつもの思想家によって事細かに定義されていて、悪文、良文、その両方に十分なエビデンスが集積していっていたとしたら?
今日は、先人が遺した偉大な概念を、なんとなく活かしながら、自分事を綴っていきます。
私自身、これまで学問に集中する余裕とかは一切ありませんでした。これまでも、これからも、そういった機会は極めて限定的だと思います。
自分自身が患っている一つの病気は、自分の感情を落ち着かせることなく、周囲から孤立させるに十分な破壊力を秘めています。この病気に関して、寛解しただろうと高をくくっては全然直っていなかった、という経験をもう50000000回くらいしています。
そうして闇雲に立ち上がって、前を向くたびに、失望が深まり、もう社会や他者と向き合う勇気がでなくなっていく…、というのがありきたりな物語の帰結なのでしょう。
世間ではひきこもりやニートといった「非社会人」と積極的に結び付けたがる動きが盛んですが、これも一種のまやかしであると論じることもできます。社会不適合者の烙印を自ら堂々と押す猫暮にとって、社会というのはなんだか絶対的な力を持っています。
その強大な慣性力によって自分の価値を狭量に定めてしまうこと、よくあります。というか、多分この「思い込み」は永遠に自分の思想の中の大原則から離れることはありません。それこそ出家でもしない限り。
しかし、不思議なことに猫暮はそんな社会に対して、反社会的な運動をするわけでもないですし、なにかしらの権利を主張するストライキ的な活動に骨をうずめているわけでもない。ただただ自殺一歩手前みたいな漫然とした絶望感を一身に受けながらも、なんとなく笑って、なんとなく悲しむ、みたいなことを両立しているエセペシミストっぽい側面があります。
心のどこかで「一切皆苦」が事実だと認識しながらも、あれも面白い、これも面白いと、いろんなものに手広く垢をつけながらも、全力で「余計」を楽しむことに執心しています。でも、実際にはいつ死んでもいいくらい。死んだ方がお得だろうなぁ、とすら思っているところもある。最高に幸せであるけれど最高に不幸でもある。
あれやこれやと手を付けすぎて、自分の思考をどうにでもイジれるようになったからかもしれません。「その場その場で都合のよい思い込みを選択できる」ようになった、と言い換えると、猫暮の厄介さが何となく伝わるかもしれません。そして、その「思い込み」という「思い込み」を繰り返したとしても、別に死にはしないことに気が付いてしまった。精神的な死や、社会的な死といった概念的な仮死状態はいくらでもあるけれど、人生はあいかわらずバカみたいに続いていく。
たとえ停滞しているように見えても、一人の人生、一人の命はサンプルとして世に刻まれる。ストリーマーのようなド派手な生き方をしなくても、だれからも承認されていなかったとしても、独りぼっちで孤独な存在になろうとも、物語の登場人物として、押しなべて、スタッフロールに刻まれている。
無縁塚みたいなものも、ある意味匿名のスタッフロールです。「地球」って物語を構成するエキストラの一つとして、なぜか名前が挙げられてしまうのです。もちろん主役級の人もいるかもしれません。檀家と密接な地方の地主なんかは大層な敷地にお墓が建てられていますよね。いうなれば「墓地界隈の一等地」的なポジションにドンとたたずんでいる。
でも、どんな脇役だって立派な役者の一人です。世界中の人に惜しまれなくても、ちゃんと生きて、ちゃんと死んだ証拠です。猫暮は、極端な話、自殺だって否定しません。外的な理由にしろ、内的な理由にしろ、その人がちゃんと存在した証拠なのですから。
猫暮、朝の散歩コースに墓地を徘徊したりする不届きものなんですが、そうして近場の卒塔婆(なぞの韻踏み)を観察していたりすると、なんとなく力関係が見えてきたりします。墓標に刻まれた名前と立派な民家の表札がいやに一致していたり、ということに気付いてしまう。きっと腹黒い金の流れもあるんだろうなぁ、とか卑しいことを考えたりしています。
同時に、霊験あらたかで清浄された空気感というのも感じています。ピンと張りつめた空気に、鳥の鳴き声、車の走行音がかすかにも聞こえない敷地の静まり返った様子には、本当に幽世に来てしまったかのような錯覚を覚えます。きっと、朝などという時間でなければ、不意に向こう側と「接続」されてしまってもおかしくないな、なんてことをドキドキと感じながら、どこのだれともわからないお墓の前で手を合わせる。神妙な心持ちにもなりますし、その瞬間、全身の身の毛がよだつような途方もない恐怖を感じたりもします。
死への根源的な恐怖なのか、お化けだとか霊だとかの未知に対する恐怖なのか、もしくは朝っぱらからお墓参りにきた敬虔な親族との気まずい鉢合わせに対してなのか、お坊さんから世間話を持ち掛けられた時のなんともいえない居心地の悪さなのか。たぶん、いろんな恐怖が綯い交ぜになった状態なのですが、おおよそ思考よりも先に「身体」が反応してしまっているわけです。
で、あるなら、この防衛機構は果たして「去勢」してしまっていいものだろうか、とも考えるわけです。
現代では、人は様々な思考法を用いて余分をカットしようと、積極的に動いています。大抵、猫暮が「楽に生きる方法」みたいのを模索し始めた時は、決まってそういった「シンプルな思考法」を実現するメソッドの数々が滝のように降ってきます。
十中八九、自己正当化のバイアスが働いているんでしょうが、本当に多いのです。もう多すぎて逆に見え透いた商売のにおいを感じてしまう。でも、それで食い扶持を稼いでいる人が裏にひしめいている事実も、十分に分かっています。「情報」を売って「生活」を買っている。工程を極端に省略してしまえばその一点に尽きます。
本当は「生活」じゃなくて「食べ物」まで原始化してしまいたいのですが、人間の文化的最低限の水準がガンガンと上昇しまくってるせいで一概にはそう言えなくなってきていますよね。今やスマートフォンのない文化的最低限は認められていないのですから。
情報格差をなくそうとするそばで、情報格差を作って楽しんで儲けているゲーム理論どっぷりな社会にちょっと笑っちゃいますが、そういうもので世界はできています。
そんな冷笑に絶えない世界ながらも、心から全力で楽しめるものがたくさん溢れかえっている世の中。令和世代の子供たちは、生まれながらにして「多すぎるモノ」たちに囲まれて生きていく。もともと多かったのに、さらに人間の作り出した「第二の自然」に囲まれて生きてしまっている。
朝の散歩とか、自然に触れるとか、山道を歩くとか、そういったルーティンを続けていると「なんだか世の中には余計なモノが多すぎるなぁ」とごくごく自然に感じます。たぶんこれは正解です。
でもそんな余計なモノたちに全力で傾倒できることも、また正解です。猫暮、ゲームなんて文化も好きですし、ストリーマーたちの全力わいわいを眺めるのも好きです。
ただ、前者のように自然に触れているほうが「正解に近い」って感覚は確実にあります。たぶん、パソコンの前に座って行うほぼほぼすべての事柄は(この文章の執筆も含め)すべて疑似的な欲求を満たすものにすぎません。それも極度に肥大化した、と思い込んでいる欲求に対して、対症療法的に放っているものです。
この感覚は、最近覚えた用語でいうところの「エクリチュール」なのでしょう。これまた便利な言葉が世の中には定義されていたものです。もともとは『エクリチュールとは〈書きことば〉、「文字を書く作法」といった程度の意味である。』くらいの用法なのですが、哲学にあてはめると「二次的に生み出されたもの」といった意味合いも含まれるのではないかと、猫暮は思います。
つまり、固有の価値観や世界観というフィルターを通されて現実に顕現しているもの、といった意味合いですね。
さっきの墓地を徘徊するクダリ、ありましたよね。その時に感じたことを、このnoteという媒体に書きつづること。それこそがエクリチュールなのです。
本当に直感的な感覚は自分の中にしかなく、結局はエクリチュールでしか想いや感覚を表層化できない。そして、それは本質的なものからは大きく変異してしまっている、といった感じですね。もちろん、文章だけでなく、映像的なイメージや絵なんかも、すべては二次的に生み出されたもの。極端にいってしまえば本物じゃない。
でもでも。
猫暮はそういったもののほうが、ずっと面白いと感じるのです。興味深い、ではなく、面白い、です。猫暮は、生の人間そのものよりも、その人間が幾重にもフィルターを通してこしらえた、偏見コンテンツが大好きなのです。
というか生の人間に、正直あんまり興味がありません。これは、本当に失礼かもしれませんが、たぶん本当に興味がない。その人が生み出すエクリチュールに興味があるのであって、人の存在そのものに感謝するような高尚な精神は自分にはないのです。たぶん母性とか父性とか、自分自身に子供が生まれれば変わってくるのかもしませんが、いまのところそういった予定もないもので。てへっ。
さて、なんかいろいろ書いてきたけれど、何が言いたいのかよく分からない文章だなって思うかもしれない。自分でもそう思う。この文章は誰に読まれようと書いているわけでもない。単なる思考の整理。思考を整理するだけならチラシの裏にでも書いとけ!って意見も最もかもしれない。これはエクリチュールの「面白い」とは対になっている「猫暮が興味深いこと」を実践している感じなのです。そして、ある種のトレーニングでもあります。
自分の考えていることを、包み隠さずに公開すること。
猫暮、実名とかそういうパーソナルな情報は明かしていません。それは、なんというか、社会に対する後ろめたさみたいなものがあるからです。結局これも冒頭でちょっと触れた「思い込み」のひとつではあるんですが、ある程度、確信をもって隠している情報でもあります。
多分、すべてを明かした場合には、人は確実に色眼鏡をかけるのです。人間はすべからく色眼鏡をかける。なるべくそれを外してもらうためにも、パーソナルな情報は極力排除している。「無知のヴェール」の疑似再現的な?
で、そんな環境を作ってから、自分の感じている、考えていることを、純度100%に近いくらいの勢いで、つづっていく。プロフィールを隠すことは、嘘をつかないための土台作りみたいなものですね。
まぁ、結局はこれもエクリチュールなので「二次的」なモノには変わりないのですが、どれだけ近似値を取れるか、試している節はあります。
結構、忘れかけている設定なのですが、猫暮は「文字生生物」を目指している生命体ですからね。キャッチーでインパクトを、っていうビジネス的な側面ではなくって、可能な限り脱エクリチュールを目指したいんです。多分、猫暮にとって文章を書くって、そこへ向かって行くことなんじゃないかな~って。文字の中に生きるって、本当の意味でエクリチュールから脱したい、生の人間を、文章の中に遺したいって感じなのかもしれません。
なんとなく、ウケる文章の書き方は分かってきたつもりです。もちろん、その道のプロの方々からすれば、私の文章はバカみたいに稚拙なモノに映るでしょう。
しかし、それもすべては「プロというまやかしのエクリチュール」の視点から見たお話。「疑似感動」「疑似体験」「疑似まごころ」「疑似対談」「疑似マネタイズ」全部が疑似です。
でも、それが一番面白いものでもあるのです。
そうして、そんなエクリチュールに踊らされる人々を、外から見ているのもまた面白いのです。え、なんか猫暮、性格悪くない?
大丈夫です。猫暮も釣られてたくさんステップ踏んでます。踊ってない夜を知らない。俯瞰しているつもりでも、私自身も外から見られていて、冷笑されている。しかし、そういうどうしようもない入れ子構造もまた、面白いんです。
たぶん、私の人生はどうであれ、主観的には楽しい。
そして客観的に見れば、辛く苦しく、見てられないほど。
そういう狭間で、生きている。