Tさんの創った黄色い湖
なんてことはない、インターネットの待合室。
うだつのあがらない日陰者たちがひっそり集い、日々の不条理から少しでも遠ざかって、今日も身を寄せ合う。
ここで話題に上がるのはどれも取り留めもないことばかり。
やれ映画の話、やれ文学界でのSFとファンタジー対立戦争の話、やれ特撮の話、やれドラえもんに原子炉が搭載されているの話、やれコンプライアンスの話、やれやれ村上春樹、という間に話は立ち代わり入れ替わり。
それもそのはず。
この待合室の近辺には、おおよそ8000をこえる人々がひしめきあっている。
人が入っては出て、入っては出て。
空気も雰囲気も人の波とともに目まぐるしく入れ替わる。
同じ顔触れになることも稀。
ともすれば同じ話題に落ち着かないのもこれまた道理だ。
始まりは、そんな再現性のない一幕。
この日、大学生活の羽休めにと待合室に訪れていたSさんがこぼした一言により、ひとつの話題に支配されることとなる。
「そういえば、この前Tさんが、大変ノンデリなお話をされてましたね」
この時、偶然居あわせた私を含め周囲の人間は、そのノンデリとやらに大変興味をもった。
Tさんとは、今この待合室のまさに中心となっている人物だ。肝臓を黒く染めながらなお、アルコールを流し込み続けるその背中に、期待と心配が綯いまぜになった視線が注がれる。
ひとしきり内容について触れるものの、Sさんは「Tさんの名誉のため」といってそれ以上は口を閉ざすよう決め込んでいた。しかしその口ぶりからすると、どうにも楽しそうな様子で、悲観的なニュアンスはそこに含まれていないような予感がした。
ともすれば口を一文字に結んだSさんではなく、Tさんの動きにみなががぜん注目する。インターネット界において一挙手一投足とは、Tさんが自身のアカウントに設定されたアイコンがピカピカと光ることを指す。つまりは当事者、さらにいえばノンデリと言わしめた本人からの真言を、この場に集まった誰もが待っていたのだ。
すると、彼はおもむろに語りだす。
「ゴールデンウィークの連休中、あれは、そう、なんてことのない一日の出来事でした」
この場に蔓延した空気が、生粋のエンターテイナーたるTさんを動かした。
Tさんはその手の空気を敏感に読み取り、最善をもって行動ないしは口動をはじめた。語り口調は軽快だった。
「その日、友達の家に泊まりに行ったんですよ。僕と他は友人二人で。ひとしきりお酒を飲んで、盛り上がってました。そのうち夜になったんで、寝床を決めてそれぞれ寝たんです。友人は、それぞれベッドで寝ることになって、僕は空いたソファーを使わせてもらうことになったんです。ただ、そのままだとゴワついた感触が嫌だったから、下にクッションやらシーツやら敷いてたんですよ。
今思えば、これがしっかり防衛線の役割を果たしてくれました。」
この待合室において互いの顔は確認できない。
たとえばVRChatのようにアバターがあれば身振り手振りを加えることができただろうし、現実であればさらに細かい表情や仕草まで、その情報量は極端なまでに増える。だが、今この空間においては声だけが頼りだ。
しかしそれでも、この場にいる全員がTさんの話に耳を傾けていることが伝わる。
ある人は神妙な面持ちで、ある人は心配する面持ちで、この話の帰結を知っている人は心底愉快そうな面持ちをしていたことだろう。いや、「だろう」ではない。事実、そんな面持ちしているに違いない。
わずかに漏れ出る人々の感嘆やあいづちの中、Tさんの話は確実に終わりに向けて進み続ける。
この先に待っているものがなんであるか、察しがついている人も多かった事だろうが、もはやブレーキは存在していない。Tさんの燃料炉には相も変わらずアルコールが投下されつづけていて、その速度をあげつづているからだ。
Tさんはエンターテイナーであり、待合室の行く末をつかさどる車掌なのだ。我々はそれに巻き込まれたに過ぎない。緊急停止ボタンならぬ、緊急「発進」ボタンをTさんが深々を押し込んでしまったゆえに、いまや電車となって走り出したこの待合室。
我々はすでに運命共同体だ。
結局、誰一人としてTさんが手にかけている緊急発進ボタンから指をはがそうともしなかったし、むしろそのTさんの手にのしかかるようさらに体重を加えてテンションを高めた節すらある。
少なくとも私はそう思っている。もしかしたら、ボタンからTさんの手を退かそうと懸命に抗っていた者もいたかもしれない。しかし、Tさんがそれを良しとしなかった。車掌は、このままどこまでも走行していく覚悟をとっくに決めて、ボタンを深くまで押し込み続けていた。
「ふと、目が覚めたんです。
最初は、『それ』がなんなのかまったく気づかなかったんです。不快感というより、なんでしょう、なんか冷たいなって感じだったんです。どうもそれは僕のケツ…っていうとデリカシーないな、お尻の下のクッションに感じた違和感でした。」
Sさんからのノンデリ発言という指摘を受けてからか、Tさんの発言は慎重だった。しかし、肝心の配慮する場所そこじゃないだろ、と私は心の中でツッコミを入れていた。
訂正後もほぼ変わっていなくて笑ってしまう。臀部とかじゃなくてお尻って表現もどこか可愛げがあった。
「ソファから退いてクッションを見ると、黄色いシミが広がってたんです。
そうです。漏らしたんです。
でも、ぜんぜん自覚がなくて、本当に僕が漏らしたのか?って感じでした。もしかしたら、友達の仕掛けたドッキリかもしれない。それくらい現実感がなかったんです。」
ちなみに待合室はすでに笑いに包まれている。
どうして大人のおもらし話はここまで花が咲くのだろう。物語に厚みを加えるエログロ要素が不滅のように、中年におもらし話は一大ジャンルとして語り継がれていくに違いない。
そう思うと冷房の効いた電車の中で耐えきれなかっただろうどこかの誰にとって、いくらか救われる話ではないだろうか。諸君。希望を捨ててはならない。どんなに腹を下そうとも。避けられない不幸であろうとも。希望はあるのだ。そんな消化不良によって起こった苦しみも、いつか昇華される。
Tさんを見ていると、そんな希望が胸にポッと灯る…
…わけもなく、私は普通に笑い転げていた。
「でも、”み”だけはなんとか死守しました。それだけは守ったんです。黄色いクッションを置いて、いったんトイレ向かいました。そこでちゃんと用を足しました。ついでに吐き気もあったので、それもトイレで済ませて、すっかりスッキリしたんです。
でも、ずりおろしたズボンから、言い逃れできないにおいが漂ったんです。いえ、このころにはとっくに気づいてました、だって下ろすときに手にかけたズボンが、いやに湿っていたから。」
記憶の中の、つまり過去のTさんにとっての惨劇はまだ続いている。
しかし一方、現代のわれわれが統べる待合室においては、大衆喜劇でもやってんのかってくらいの盛況ぶり。この悲劇と喜劇のコントラストがまた笑いを加速させていく。緊張と緩和。笑いの基本である。
緩和した結果、Tさんは”やっちゃった”んだけど。
「友達にも、当然ばれました。最初は、クッションに吐いたのかな?くらいの印象だったみたいでなんてことは無かったんですけど、その黄色い湖の真実に近づいていくにつれ、笑顔が曇っていくんです。
今、俺たちが見ているのモノは吐しゃ物なんかじゃない。れっきとした、”下のモノ”だと。」
掛ける言葉も見当たらない。
だがこの場合、聴者である私たちにとっては少しニュアンスが違う。
私たちは、この話を止めようとして言葉を探していたわけではない。
むしろTさんからもっとエピソードを引き出す方法がないか模索していたのだ。
だが、それとは関係なく話が自動的に進展していくから、言葉をかけずとも車掌が次の駅のホームに向かって電車をトントン拍子で進ませるものだから、言葉がいらなかった。よって掛ける言葉が見当たらないという結論に至ったまでの話。なんのはなしですか。
「ああ、その時の友人たちは、すっごく優しかったですよ。もうこんなに優しい二人を今までみたことがありませんってくらい、優しかったです。一人は僕のために下着を取りに行ってくれました。もう一人は『気にすんなよ』と言ってクッションやシーツを片付けてくれました。その間、ぼくはバスタオルで下半身を覆いながら、羞恥心とか絶望感とかをごまかすことに必死でした。それでも、二人は優しい瞳を向けてくれたんです。」
そのまま最後にこう続けた。
「多分、人が一番優しくなれるのって、漏らした瞬間なんですよ。」
Tさんの友人二人の顔はまったくわからないし、話の中での描写ももちろんなかった。しかし、二人の生誕な顔立ちや、主演男優級のさわやかなスマイルが目に浮かぶよう。
きっと、人間が仏さまの顔を拝むためには、Tさんと同じように友人の前で粗相をする他ないのかもしれない。万物すべて含めても、仏が顕現されるのは人が粗相をしたその瞬間だけ。
そんな仮説に説得力を持たせるほど、Tさんの語り口には「友人二人のやさしさ」がこれでもかと詰め込まれていた。
「仏に会いたきゃ、”み”をだしな。あ、ほーれ、よいさ、よいさ♪」
いやにノンデリな田植え詩を思いついてしまう。
しかし事実として、Tさんは仏に出会えたのだ。
証拠がある。
クッションに広がる黄色い湖。
その湖のそば。
確かに仏さまは降臨なされたのだ。
「でも、ぼくは”み”だけは我慢したんです。そこだけは守ったんです。」
そうして、どこかやりきったような顔(というか声)を見とどけて、場末の待合室で行われた突発公演は無事大成功とあいなった。
割れんばかりの笑い声と、拍手が会場を支配する。いやそんなような気がしただけで、実際にはノイズキャンセリング効果でハンドクラップ音は見事にカットされてしまっている。
Tさんのお話によって、彼が誰からも愛されるのんべぇだと証明された。かわりに失ったものなど些末なことにように思える。
縁もたけなわ。
というところで、たまたまこの待合室で話を聞いていた女医Yさんから、Tさんに声がかかる。
「腸液の流出だけでしたら、医学的に見てもセーフですよ」
それが救いになったかは分からないが、Tさんは仏のような声色で、ありがとう、と返していた。
ちなみにこの後「結局、誰がこの汚い話を始めたのか」という責任をお互いになすりつけあう流れになりました。
その時の待合室においては、誰一人、仏の顔はしていなかったとさ。
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