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連続投稿をやめてみたら、本当の豊かさに気付いたお話。

ありきたりなタイトルに、ありきたりな文章になりそうな予感がビンビンの本記事。しかし、そこをどう料理していくかがライターとしての腕の見せ所です。

あいにく、猫暮はへんな調味料というか摩訶不思議なボキャブラリィを持て余している落伍者なので、この辺は思うがままに筆を走らせるだけでわりとなんとかなっちゃう。書いてやりましょう。見せてやりましょう。ラピュタのいかずちを。

…いやこんなハードルアゲアゲチョモランマになる前置き置いといて大丈夫か??

こんにちは、猫暮です。
ぜんぜん大丈夫じゃないです。大問題です。

わりと久しぶりに書く文章ということで、書きだし方が行方不明になっています。でも大丈夫。元から猫暮の文章はニッチな層にしかウケないですし、度重なる怪文奇文の連続投稿により、だいぶ読者層は絞られてきました。

そんな環境で書いているのですから、まぁわりと何やってもいいのかなぁと。いうなれば、「信頼と安心のブランド」みたいに背負うものが一切ありません。たぶん「欺瞞と危険のカオスシンボル」みたいな感じです。完全に対義語です。近寄るな危険!のカンバンを立てておいた方がいくらか世のため人の為になります。高速道路に設置されている「速度落とせ」の標識くらい頻繁に設置しておいたほうがいいでしょう。ちなみに諸悪の根源である猫暮は一切スピードを落としません。落とす気がありません。今日もアクセルベタ踏みドーパミンドッパドッパしながら昼のハイウェイを爆走してやります。

しょっぱなから文章も話も脱線しがちになってまいりました。
ごめんなさい。思わず楽しくなっちゃいました。

え、文章書くのってこんなに楽しかったっけ?これもまた「毎日投稿」を辞めてみた結果もたらされた副産物みたいなものでしょうか?素晴らしい発見。さらに筆が乗ってしまうじゃないかどうしてくれる。

そうそう、そうなのです。毎日投稿、辞めてみました。やっとウィンカーをだしながら余談から本題に合流できました。そうです。辞めてみたんです毎日投稿。

テンプレートでいくなら、さっさと話の結末を三行くらいの箇条書きでまとめてあとから解説を加える「ファッ〇ンPREP法」なんかで書いた方が断然読みやすいのでしょうけれど、いえいえ、そんな勿体なことは致しません。久しぶりに筆をとったのですから、どうぞ、猫暮の敷衍ふえんされきった世界にお付き合いいただこうじゃありませんか。


Q.ここにあるのはなんですか?
A.時間の無駄です。

A.――でも、そんな時間の無駄こそが人生を豊かにするエッセンスです。


なんでやめちゃったの?


最初、連続投稿を辞めることに結構抵抗感がありました。

「せっかく続けてきたのに」とか「ここまできたらもっとデッカイ数字を目指したいよ~」とか、欲望に後ろ髪を引っ張られすぎて若干前髪が後退しそうでした。…ちょっとしたかもしれません。

ある意味、連続投稿ってちょっとしたデイリーボーナスです。何をボーナスとして取得しているかっていうと、みんな大好き「自己肯定感」です。
肯定感の正体があいまいになりつつある現代では、どうにも培われにくい感情?性質?概念こと「自己肯定感」。だから、せめてそれを視覚的に変換させてやろうと、日々人々はもくろんでいます。

「おめでとう!10日連続投稿です!」
「すごい!50日連続投稿です!」
「すばらしい、ついにきましたね連続100日投稿です!」

こういった表示がなんだか褒められている気がして、自分の心の中に「自信」が芽生えたように感じるかもしれません。しかし、この記録は、外的要因でいともたやすく千切れらてしまう、脆い糸でもあります。

なんとなく、この脆さに依存している自分って図式に気付いて、「あ、なんか自分にとっては意味ないかも!」って感じちゃったからですね。


脆さってなぁに?

たとえば、サービスの中核担っているサーバーがあるとします。たぶん、そのサーバーを管理しているエンジニアさんたちによって、たゆまぬメンテナンスが施されているでしょう。

仮にこのnoteを例に取り上げたとして、外部委託か自前なのかは、部外者である猫暮には分かりませんが、サービスを存続するためにかならず取り交わされている契約があるはずです。その契約や職務を忠実に実行するエンジニアさんたちの手腕により、ユーザーの連続投稿記録は守られています。

いうなれば、既存のユーザーで最高の連続投稿記録を持っている人がいたとしても、裏返せば「サーバーとネットワークが保守された日数」でもあります。メンテナンスがつつがなくまわった幾千日の証明なのです。続けているという意味において、誰より最前線を突っ走っているのはエンジニアである彼らなのです。そんな彼らの築いた道を、私たちは安心して走っているわけです。

しかしです。もしも、そんな保守を務めるエンジニアさんが全員一斉に動けなくなってしまったら?どうなってしまうでしょうか。

サーバーは停止してサービスは破綻。私達が安心して歩いてきた道は途絶え、どうしようもなく途方に暮れてしまうでしょう。というか結構な人数がキレると思います。怖いです。炎上です。責任の所在を追及する不毛なフェイズに突入するでしょう。

もちろん、サーバー自体も何重に冗長化されているでしょうし、保守体制も一枚岩ではないかと思います。一つの企業が契約を果たせなかったとしても第二第三の矢はいくらでも想定されているでしょう。当然、保守を果たせなかった企業には「契約違約金」が発生し、信頼の欠如は「お金」として補填されます。

例えば、天災によってすべての物理サーバーが破損、あるいは通信網が断絶した場合でも、継続不可能となった状態は「お金」として企業から企業に、あるいは企業からユーザーに補填されるにすぎません。

私達が普段利用しているサービスは、絶大な信頼の元で活用されています。そして、信頼の担保として違約金がかけられています。でも、これは文字通りの違約金ではありません。金さえ払えばいいんでしょ?なんて生易しいものではないのです。破れば業界からのみならず、数百万に渡るユーザーたちから村八分にされてしまうリスクをはらんだ脅迫的信頼です。

サービス過多な現代において、信頼のカタチとは、実はものすごく攻撃的なファクターを占めているのです。ある意味で、天災が起こるまで絶対にやめられないのです。だからこそ、そんな脅迫的な観念の上で成り立っているサービスに、なんか嫌だなって思ってしまったんです。


脆さっていうのは、サービスの質とか信頼とか担保が脆いって、意味ではなく、デッドロックされてしまっている相互関係のことを指しています。お互い、辞めるに辞められない、みたいな感じ。ちょっと無理心中っぽい部分があるよね。人によっては「え、むしろ頑丈な関係じゃないか」って感じにも見えると思うんだけど、絶対不変なんて真理はこの世にないのです。

猫暮思います。すごく生活は便利で簡略化されていっているのに、人は些細なことでドンドン怒りやすくなってる。後述する内容ではあるのですが、欲望のデフォルトの水準がガンガンと上がっていってしまっていることに、人はどこまでも無自覚なんだろうな、って思ってしまうのです。


単なる生存報告になっちゃうかも?

もう一つ、連続投稿は、その人が何よりも無病息災であることの証明です。

例えば、地方に住んでいて通信網が断絶してしまった、ついでに道路なんかも土砂で封鎖されてしまった、なんか憂き目にあってしまったら、まぁ連続投稿は続けられませんよね。ネットにアクセスすらできないのですから。

こういう言い方をしてしまってはなんですが、連続投稿はその人が「どんなに平和に過ごせてきたのか」を証明するだけの判断材料にもなるのです。

明るく、笑顔で、健康で、…とさすがに毎日過ごすわけにもいかないでしょうけれど、とりあえずタイピングやスマホでフリックができるくらいの健康状態で過ごせて、投稿を辞めないという意思を持ち続けられるだけのメンタルを保てて、そうして細い糸の上に成り立っているnoteというサービスを愚直に信頼しきれている。そういった、「限界」でない生活を送れてきたことの、裏返しです。

私は連続投稿を辞めてみたキッカケとして、「あ。この連続投稿ってすさまじい環境依存の上に成り立ってるんだな」って何となく気づいてしまったんです。

住んでいる地方が津波に襲われたら一発だし、メンタルが完全にブラックアウトして廃人状態になったらそれでアウト(その状態で書けたとしたら、それってわりとファッション廃人)閉鎖病棟に緊急搬送されたら電子機器なんて一発没収ですし、それこそ不慮の事故で手足がマヒしてしまう、なんてこともある。

そういった事態に晒されず、平和に生きてこられている証拠こそが連続投稿。すごく恵まれている事です。環境にも、人にもです。少なくとも、他人から刺されたりはしていないわけですからね。


「自己肯定感」っていう後付けミーム

さて、仮にですけれども、サービス自体の問題によって続けられなくなった時です。たとえば緊急メンテが入ってしまったとか、サーバーが落ちてしまったりとか、通信網に障害発生してとか。せっかくの連続が途切れてしまった。

ユーザーは「あ~あ、連続投稿、途切れちゃったな」ってガッカリするだけで済むのでしょうか?まぁ仕方ないか、って割り切れるものなのでしょうか?

たぶん、依存していたものがプッツリと切れた時、それまで賄われていたはずの「自己肯定感」がふよふよと何処かに消え去ってしまうのではないのかな、なんて思うのです。

すると、多分人は怒ります。文句を言います。もう信じられなくなってしまう。私の中にあった「ブランド」をよくも壊してくれたな、って。そうして奪われた「自己肯定感」への保障をどこかに求めるかな、って。

でも、自己肯定感ってのも変なワードです。これ本当に使えば使うほど自己肯定感が削がれていくような不思議な性質を秘めている気がするんですよね。

猫暮は、たとえば連続投稿をする上で、みんなが培われていると思っている自己肯定感の正体って肯定感でもなんでもなくって、「お金が絡んだ契約の上で成り立っているサービスに寄りかかる安心感」が膨らんでいるにすぎないと思っています。すごく外発的なモノです。

ある意味で「他己肯定感」でしょうか?他者にまるっきり預けているものです。自分で書いているつもりでも、その実存は信頼元のサーバーの中に保管されちゃいます。外発的に刺激された肯定感です。

よく宣伝文句で「継続することが大切なんだ」みたいな文言がありますが、ますます自己肯定感の在り方が行方不明な気がしてしまうのです。表面上だけをなぞった都合のいい言葉に、自分の在り方を預けてしまっているような…いうなれば、「外注された肯定感」を信じ切ってしまう人が多いイメージ。

そこに依存してしまうと、人間の欲望はアジャスト(調整)されます。継続することがだんだんと当たり前になっていきます。だからこそ、培ってきたものの喪失を恐れる気持ちが、よく人々にこんな文章を書かせるのかもしれません。「連続投稿、やめてみたらスッキリした」みたいなね?…ワタシダヨ!

ついでに、喪失してしまった時に発生する「怒りの感情」は、依存関係や膨れ上がる欲望を考慮しないがために呼び出されてしまったモノ。
いうなれば「最初はなかったはずの怒り」です。

猫暮おもうのですが、情報が可視化されるサービスに入れ込んだ人は、どうしてカタチにこだわるようになってしまうんだろうなって。

もちろん、カタチにならなければマネタイズはできませんし、カタチにすることで一部生活に養っている人もいます。しかし、視点を変えてみれば、すべてはお金のため、ということにもなってしまいます。

もちろん、人とのつながりを大事にする人もいらっしゃるでしょう。でも、その接着剤というか継ぎ接ぎのために使っているのは「お金」に思えます。「豊かさ=お金」と直結してしまっているような考えが世にはびこっているなぁと、猫暮はよく思います。そんなことないのにね。

さらにいうと最近では「お金」の代わりに「アテンション(注目・関心)」を集めるのがどうやら豊かさと直結しつつあるみたいですね。そんなことないのにね。



私にとって大事なのは「書いた経験」


さて、サーバーが崩壊しようとも、人身事故にあって書けなくなろうとも、「それまで自分が書いてきた」という絶対的な「経験」だけはしっかり残っているはず。書けなくなってしまったとしても、必要以上に悲しんだり怒ったりする必要はないんじゃないかなて思うのです。

もちろん、人間だから一喜一憂することはある。でも、その衝動は自分の内側だけで昇華させて、また次なる経験に目を向けれるようになれば、また一つ豊かになっていくんじゃないかなって!

そんなカタチになっていない「経験」を貪欲に大切にすることが、豊かさなんじゃないかなって、猫暮思います。

ハードルがあがっていっていることに無自覚なままでいると、欲望はどうしようもなく膨らんでいきます。そうして、とても途方もない場所にまで豊かさを求めに行くようになってしまう。足元に転がっているはずの豊かさを無視したまま…。

――猫暮は、そうなってしまった自分を想像したくありません…。だからこそ、自分の内側を何よりも大切にします。そして、連続投稿は、それ自体が自分を豊かにするわけじゃありません。「カタチになった文章」も「連続投稿の記録」も「褒めてくれる読者の方」も、副次的なものなのです。

「書いた経験」が自分の内側を押し広げてくれるんです。この感覚が、うわぁ~ってなっちゃうくらい感動のタネでもあるんです。

しかしどうにも、この「経験」って軽視されている気がします。カタチに遺さなきゃ意味がないだの、読まれなければ意味がない、って文脈にもちょっと類似点がある気がしますね。そう主張する方はたくさんいます。

ああ、正確には「軽視するように仕向けている誰かの意思」みたいなものを感じます。数多のサービスに寄りかかることで「他己肯定感」が自分の中で成長してしまい、いつの間にか「他己」に乗っ取られてしまっているような感じ。その間にも自分にとっての豊かさがぼやかされてしまい、どこかへと飛んで行ってしまう。幽体離脱状態。

誰かの豊かさを削り取って自分のモノに変える、ってことでしか豊かさを実感できない人もいるのは理解できます。でも、本来そうじゃない人までマネーゲームに巻き込まれちゃうのは、なんだか物悲しい。

だからこそ、大体の場合、その自己肯定感だと思っている意思って「誰かの利益」のために植え付けられているものだよ、ってトコロを良く理解してほしい、って思っちゃう。

それに惑わされている限り、自分にとって本当の豊かさは訪れないよって、猫暮は注意深く訴えたいかもしれません。危険!危険!自己防衛!


おわりに。今日の話に繋がる映画を添えて


ちょうど、今日の記事で解説した感覚を説明するのにぴったりな映画があるのでご紹介。

というか超有名作なのでご存じの方は多いと思うけれど「プラダを着た悪魔」

もう何回見たのが覚えていないけど、すくなくとも10回以上は見ている。本当に毎年のように見るたびに着眼点が変わっていく。自分を見つめなおす意味でも、映画のエッセンスを深く味わう意味でも、たくさん見て損はない。もはや人生の指標みたいな作品。

ただし、「サクセスストーリー」って属性に目が行く人が多いけれども、この作品は冷徹なビジネスの在り方とそこに憧れてしまう人々の在り方にフォーカスを当てているのであって、「こうするのがいいよね」って感じでお気持ち表明を発表するための道具ではないことを、猫暮は訴えかけたい。

お気持ち表明がバカみたいに溢れかえっている現代へのアンチテーゼにもなる作品!ぜひぜひ、観ていってね!


うん、今日もトゲが強いな猫暮。でもいい。久しぶりに書く文章なんだから、思うままに書いたらいいのよ~。

さて、そんなこんなで連続投稿は辞めてしまったけれど、note自体はちょいちょい気が向いたら書いていこうと思うよ~!

最後になってしまうけど、猫暮は連続投稿をやめてみて、本当に楽しいです。単純に義務から解き放たれたカタルシスって感じもありますが、本当にしたいことに時間を割けるって、いいですよね。

友人と思いもよらない内容で3時間トークしたり、気が済むまでゲームしたり、本を読んだり、映画みたり、猫と戯れたり、お泊り会で大切な人と濃密な時間を過ごしたり…へへ。

ではでは、また次回!


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