審美眼の必要
この国に良いものを、残していかなくてはならない。
このところ、ひしと感じること。
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数年前、好きだった洋服のブランドが日本撤退した。
そのあと、ある航空会社が日本便のラストフライトをした。
そして今年のはじめ、信頼していた靴の代理店が、日本からなくなった。
いろんなものが、ひっそりと、この国から姿を消している。
良いものが必ずしも残るわけではないことは、分かっている。
それでも、自分の美しいと感じたものが手に取れなくなるのは、悲しい。
なぜ、素敵なものばかり無くなってしまうのだろうと
ときに、考えてもみる。
きっとそれらは手がかかりすぎる。
たくさん作ることができない。
だから、値段も必然的に、上がる。
それに見合う価値を伝えきれず、また、見出しきれない。
そういうこと。
…そういうこと?
それで済ませて、いいことなんだろうか。
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国内・国外にはまだ大勢の、素晴らしい作り手たちがいるから
これもある種の入れ替わりだと思えばまだ、十分に希望は持てるけれど。
でもどうかな。
もし、あの手の込んだ洋服に代わるのが、1年経てば終わってしまうような、
取っ替え引っ替え、買っては捨てるような服だったら。
もしあの飛行機の代わりに飛ぶのが、安さだけを基準にほかの諸々を排除したような機体なら。
もしあの美しく機能的な靴に代わるのが、形だけを真似た硬い皮のハイヒールになるのなら。
確かにそれも、大切な選択肢。
判断力、洞察力。それらを駆使して、上手に付き合えばね。
でも、これだけしかない世界。これがスタンダートな世界、だとしたら?
わたしはそれを考えると、恐ろしく思う。
そんなふうになってしまったら
わたしたちはどんどん、美しいものを見る眼を曇らせて
それを見抜けるだけの目は、次第に数を減らして
誰かの仕業に対する敬意も、いつしか薄れてしまうのではないだろうか。
そしたら最後に残るのは、一体、なんなんだ。
そんなの、ただの荒野じゃないか。
そこに、何があるというのだろう。
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これは私だけの感覚じゃなくて、
わたしの敬愛する人々もやはり、皮膚のどこかで感じているみたい。
それにつかの間、心が安らぐような気がしたけれど。
でもこれは絶対に、憂うべき事態だ。
だからわたしは働き、学び、見る眼を養い、
つくり手に敬意を表し、
価値あるものに、価値を見出していたい。
その必要を、今まで以上に感じてる。
自分のために、そして愛する人のために、
この国にいいものを残していくために、審美眼を磨く。
すべての美しきものに、礼を尽くせ。