ノスタルジア
着ていた服の思い出も、もちろんたくさんあるのだけれど、
着られなかった服の思い出というのがときどきふっと、
海底の砂みたいに記憶の底から浮きあがる。
たとえば、まだ子どもだったころに、百貨店で立ち止まってしまったあの服とか。
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それはまっすぐに裁断されたノースリーブの襟付きワンピースで
薄いイエローに、ちょっと大きめの、いろんな色した水玉がプリントされていた。
ボタンダウン。子供服だけれど膝がでるかでないかくらいの丈で、それがそのポップな生地の表情を中和させているような、けどどちらかといえば目立った柄のワンピースだった。
そのころわたしはずいぶん引っ込み思案で、そしてたぶん憂鬱そうな顔をした子どもだった。だからなのだろうか。
そういう服を着られたらどんなだろうって思って、うっかり、その服を長く見つめてしまったのだった。
わたしの視線に気づいた大人が、わたしにか保護者にか、どちらともつかずに試着を勧める。
いい、と断るのなんて現実的じゃなくて、わたしは言われるがままに試着室の前で靴を脱ぐ。
こういう服は、もっとどこか日の当たる場所で生きてるような子が着るもので、
自分がそんな人間じゃないのは、そのときすでによく分かっていたのに。
服を着て、ボタンを上から全部とめて鏡を見る。
それはとても可愛くて、でもやっぱりわたしは自分に似合っているとはとても思えなくて、
でももしかしたら、とどこかで思ってしまう。
いつか誰もいない場所で、誰も今までのわたしを知らない場所で。
そんなところでなら、わたしはこの服を着て新しい人間になれるかもしれない、なんて思ってしまって。
高揚していると同時に後悔しはじめているような、気持ちでわたしは試着室のカーテンを開ける。
お似合いですね、とかいう店員の声とか、可愛いじゃないという親の声とか、そういうのがもう、どこか遠くで聴こえていた。
わたしがそれを欲しいと言ったのか、言えたのかどうか、それは本当のところよく覚えていないのだけど、
親は財布をひらいてそれを買ってくれて、わたしはそれを家に持ち帰った。
買ってもらってわるいことをした、というような帰り道の気持ちは、今でも買い物に失敗したときにときどき思い出す。
思ったとおり、やっぱり結局、わたしがその可愛いワンピースを外に着ていけたことはなかった。
一年に何度か、衣装棚から取り出して鏡の前であててみたり、
ほんとうに数回、夏休みに家の中で着てみたりはしたけれど。
だけど出かける時に「あれを着ていったらいいじゃない」と言われても、わたしは頑なに首を横に振り続けた。
そうしているうちに大人になってしまった。
あの服、いまでもさえざえと思い描くことができる。わたしの黄色いワンピース。
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大人になってわたしはいま、好きな服を着て生きているけれど、
それとこれとはぜんぜん違う話なのだ。
着たい服を着て生きていこうとか、人の目を気にする必要はないとか、お洋服で自分が変われるかもと思える素敵さとか
そういう上手な着地点を、この話に限っては見つけられないでいて。
ずっと、着られなかったという気持ちを抱えていくしかないんだろうなとおもう。
上手にできない、いつもびくびくしていた、あのときの自分を抱えていくしかないのだとおもう。