欲望という名のささやかな
象牙の塔から筋肉のない脚で、わたし踏み出そうとしているのかもしれない。
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睡眠欲以外、あらゆる種類の欲というものから、できれば距離を置きたくて、
そういう静謐たろうとしているわたしのことを好いてくれる人がいることも、どこかで薄々感づいていた。
すべてのささやかな欲望は無視するか、抑え込むか、あるいはどうにか打ち勝つとかして、
透明の透明になった世界で、最後にどうしても残ってしまったものに跪く。
それがどうもわたしのやり方らしくて、ほんとうに、我ながら極端だ。
でも春の嵐が吹いて、
桜がまるで風を可視化するようにひるがえって散り去り、
星が気づかぬほどの緻密さで頭上を動いて、
わたしは止まったまま時速900キロで雲の上をゆき、
そんな季節を過ごしたら、すこし何かが変わったような気がした。
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ささやかな欲望を、忘れず満たすこと。
世界はそれをわたしに薦めているようで、そのことがいま、生活の端々にちらついている。
それはたとえば、
「明日のことなんて考えたくないの」ときっぱり言ってのけた魅力的なひとの、椅子の上に乗せた脚とその骨のまっすぐなことに。
祈りを終えたらまた感じられるようになった、教会に漂う白い花の香りに。
「わたしは必ずおかわりする。炊きたてのごはん、おいしいもの」と隣の席で高らかに宣言する老人の姿に。
いま持っているものだけで生きていくのだと、踊るフラメンコのステップに。
1日開けっ放しにした赤ワインの味に。
あるいは祖母の桃色の頬に。
そのときそのときに、自分自身を安全に幸せにしてやるということ、
それを大切にしなさいと世界が言っているような、それぞれ少しずつ美しいことたち。
視界が抜けて、それが見えるようになった。
見えるのか、見張られているのか、まだ、わからないけれど。
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ささやかな欲望たちが、いたずらを仕掛けたがる妖精みたいにわたしの周りでさざめいてる。
それに翻弄されるのも悪くないなと、このところちょっと思っている。
欲望という名の電車に乗って、行き着く先はどこなんだろう。
うまく六つ目の角で降りられれば天国、それとも、墓場で迷子になるのだろうか。
春はなにも知らない。わたしも何も知らない。
でも目の先でちらちらと光るこのことについて、ちゃんと考えてみたい。
ただ、芽吹いては散り、生まれ変わっていく、その中で
今日の一瞬にきらめく、さらさらした欲望を際限なく満たすということを。