こんいろ
紺色のことを、かんがえている。
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わたしが子どもの頃はまだ、きちんと”よそゆき”というジャンルが服にはあって、
母が一等きれいな洋服を着てお化粧をはじめるときには、わたしも紺色のジャンパースカートを着せられた。
中には白いブラウスをあわせて、フリルのついた、白い靴下を履いて。そしてストラップのついた、小さな小さな黒いエナメルの靴。
それで行くのはたとえば銀座の写真館とか、新宿のレストランとか。いまではひょいと電車に乗ってしまえば辿り着くような場所、でも当時はたしかにそこは”よそゆき”で行くべき場所だった。子どもごころにとても遠いところ。
とはいえわたしは動きにくいその”よそゆき”が好きではなくて、どうしてこんな窮屈な格好をしなくてはいけないのだろう、と不満をつのらせていた。こんなのでは、走りまわることもできやしない。
それから長い間、紺色にまつわる記憶はあまり良いものではなかった。
静かに息をひそめていなくてはならない紺色、そして学生になれば、どうあっても毎日体を押しこまなくてはならない紺色。
紺色との思い出はずっと、息苦しいような空気が支配していた。卒業したらできればもう、会いたくないよ。言葉ではそう突き放してきた。
だからまたそれから何年も経って、ふとしたときによく紺色を手にとっていることに気づいたときは不思議だった。あんなに窮屈だと思っていたのに。
紺色のスカートに白いブラウス。
刷り込まれたものは、なかなか脱ぎ捨てられないのだろうか。そう自嘲的に思ったりもしたけれど。
けど大人になって、自由の風にいつも吹かれて、
そんなときに紺色は、自分を律する気持ちを取り戻させてくれるのだ。
きちんとしていること、折り目正しくしていること、そして、日常にまっすぐな線を引くこと。
なんでもできるようになったから、ようやく、紺色の素敵さが心に流れ込んでくるようになった。
気持ちよく清潔にいるための、わたしの大切な紺色。
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しかし悲しいことに大人になってからは、仕事着もよそゆきも、ほとんど同じようになってしまった。見回せばいずれも適度な服ばかり。
いまも”よそゆき”という概念はあるのだろうか。分からないけど。
でももし”よそゆき”を着るべきところがあるのなら、わたしはまた、紺色のジャンパースカートを着たいな。
あの頃よりもっと洗練されたかたちで、美しい白いシャツをあわせて。そして大人の証にハイヒールを履こう。
わたしやっぱり紺色が、好きだ。