エゴイズムの配分
ずっと小さいころ、舞台の稽古をじっと観ていた時間がある。
ひな壇のホール、演出家の隣に座ってただじっと。ことによると、椅子の上で体育座りでもしていたかもしれない。
わたしの腕をいきなり引っ張って、演出家がおもちゃのような腕時計を覗き込んでも小さいわたしは黙っていた。演出家が問う。澪ちゃん、どう思う?
「舞台の上の方が埋まってないです」
はっきり記憶しているけど、わたしはそう答えた。演出家がだまって頷いて、そのあと間をおいて「わかる」と言ってくれたことも。
役者は板の上だけで必死になっていて、物語は到底舞台の上空や、果ては劇場の最後列まで巻き込んでいない、ということを指摘したつもりだった。
わかる、と言った演出家はあのときでも、それを役者には伝えなかった。
劇場のライトに照らされた無表情な横顔を憶えている。
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あのときは、なぜもう一つ作品を良くする手立てがありながら、それを伝えずにいるのだろうと少し訝しかったのだった。
なんて恐れを知らないものの言い方をしたんだろうと今は思っている。
小さい自分のその、残酷の上澄みを掬ったような純度の言葉は、思い出してもぞっとするほど冷たい。
どこにも所属していない人間の、誰の感情も無視することができる人間の言葉。
大人になって、社会には思った以上にいろんなところにお金や感情が流れていて、意外とあらゆる幻想的なものが、その構造の一端だということを知った。
ひとつの作品の中にも、さまざまな思惑が流れていることを知った。そうでないことの方が珍しいということも含めて。
そういうものを操りながらものをつくるということは、なんて骨折りなのだろうと今になってはまた別の尊敬の念を抱いてやまない。そしてそれはきっと楽しいだろうとも考えられるようになった。
だからなんとなく今は、「わかる」とだけ言ってそれを伝えなかった演出家のことも察せられたような気がしている。
わたしなんかより当然「わかって」いたその人の冷酷な作品へのまなざしと、それを伝えなかった感情や社会性のバランスと。
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エゴの配分はいつだって難しい。それは、わたし一人がこれだけの文章を書くときでさえも。
純粋さとか、続けることとか、何かをのみ込むこととか、その中でベストであることとか、そういうことを最近は折に触れて考える。
最高のバランスはおそらく決まった場所にあるわけじゃないんだろうというのが今のところの結論で、それは最高のバランスをまだ見つけられていない言い訳なのかもしれないけれど、
でも天秤の上でよろめきながら、いつだってそれを探していたいとか、
あの人の横顔をときどき思い出しながら、わたしは世界の隅で思うのだ。
純粋さのために散っていった、愛する人たちのためにも。
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