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風のかたち

旅先、「私たちにとって、風はかたちのあるものなんだ」と運転席のその人が言うので、

窓の外を見ればそれはほんとうに、事実だった。

心許なくなるほど優しい服を着て、わたしも風のかたちをつかまえたい、と思った。


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全景を覆い尽くす、それは見たこともない田園。


上手な人がさらさらと、筆で文字を書くときはきっとこんな感じだろう。

金色と飴色の、ちょうど真ん中くらいの色をした輝く小麦畑の上に、

流れるままにいくつもの溝と影ができては、戻り、それはもう一丸となって、

凄い勢いで描いているのだった。



これはなにに似ているんだろう、砂で絵を描くこととか

渦のぶつかって消えるのを見ることとか、

窓に雨粒がぶつかって大きくなり、こぼれ落ちるまでを眺めるのとか、

でもどれとも違うような気がした。いつまでも見ていられそうだった。



日は沈んで、消え残った薄い紫と橙のひかりが空にまだ浮かんでその日最後の明るさを提供し、

それでも風は、止まることを知らずまた小麦の上につぎの模様を描いて、

それは何度も手紙を書いては書いては、便箋の新しいページを出して、

日の暮れる前になんとかこの気持ちをすっかり書いてしまいたいと急いているみたいだった。



この景色に入れたらどんなだろう、と

わたしはそれを見ている間じゅう、車のなかで思っていた。

あるいは風のかたちを捕まえることを、ひとりでできないものだろうか、とも。


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そして東京の街に戻ってからも、ときどきそのことを思い出している。



もしも、風のかたちを捕まえるのなら、きっと”心許ない服”を着るのがいいんだろうと思う。

限りなく薄くて、体温まで透けてしまいそうな、優しくてひらひらした素材でできた、それをわたしは”心許ない服”と呼ぶのだけれど。

だってきっとそれでないと、あの小麦畑みたいにはならないのだ。

風を受けて立ちそうな布や、弱々しくぴらぴらする服なんかでは、たぶん、上手にかたちを捕まえることはできない。

けど、心配になるほどしなやかで無防備な服なら、もしかしたら。


そんなことを思って、薄い絹のワンピースなんて、引っ張り出してきたりもして。


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風にはかたちがある、ほんとうに。

それを知って、そういう瞳で東京を見渡せば、街にも街ゆく人びとにも、いまどこにも風のかたちは見えなくて。


本当にわたしはあんな綺麗なものを見たんだろうかって、夢のあとのような気持ちになったりもしている。

それでもできるだけ、やっぱりあの流れる小麦畑を忘れたくないから。

それに、風のかたちを自分でも、なんとか感じてみたいから。



だからこれから風の通りぬけるのを感じた日には、

透けるように優しい服を着て、それをつかまえにいくのだ。


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