唇は赤の哲学
赤の口紅をずっと探していた。
店先で見かければ手にとってみて、時に柔らかい筆先ですっと色をのせてもらったりもして、
それでももう何か月も、何年も、これという赤色には出会えずにいた。
少しずつ、何かが違うような気がして。
深く黒の混ざったような、ヨーロッパのマダムみたいな赤色とか
あるいは中国の美女めいた、朱色に近い赤色とか。
美しい艶のあるものから、寝起きのようにそっけない質感まで
あらゆる赤の口紅を、自分の唇にのせては落とす日々だった。
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「赤の口紅」
その言葉だけを胸にしまって、まだ見ぬ赤色を探し続けるのは
なんだか哲学者みたいだと、ある時から心のどこかでそう思い始めた。
”わたしが見ている赤色は、あなたが見ている赤色と同じなのだろうか?”
昔どこかで聞いたような、そんな命題が頭の中で鳴っていた。
それぞれ少しずつ違う赤色がいくつもあって、
それぞれ見え方の違う私たちがいて、
それで世の中には無数の赤色が存在しているのだと思うともう、なんだか気が遠くなりそうだった。
それはもちろん、楽しい気絶でもあるのだけれど。
それでもわたしは自分の赤色を探して、ことあるごとに懲りもせず赤色の口紅を手にとって
また何か月も、何年も、そんなことを繰り返して。
ある日突然、ほんとうにふいに
まるでなんの違和感もない赤色をついに見つけたのだった。
よく晴れた平日の午後、きらきら光る百貨店の真っ白な椅子の上で。
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「非常事態」という名前の赤色だった。
深すぎるほどに深くはなくて、明るすぎるほどに明るくはない。
すごく色気があるわけでもないし、すごくコケティッシュなわけでもない。
それでもその赤はわたしの顔色にぴったりと似合って
パーティーだろうが海辺の家だろうが、不思議とどこにでも行けそうな気がしたのだった。
目を惹くのに溶け込んでいる。
なんでもなさそうなのについ見てしまう。
そんな唇をいろどる赤色に出会って、
わたしはもうこれ以上何も探す必要はないと、ようやく赤色探しをやめた。
わたしの赤色はここにあると、ようやく確信できたから。
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赤の口紅を探して歩く、女の子はみんな哲学者。
わたしの見ている赤色が、あなたにとっての赤色とは限らない。
あなたに見えているその赤色が、わたしにとっても魅力的だとは限らない。
それでも赤色という特別さは、私たちのことをいつだって惹きつけて止まないのだ、きっと。
そう、唇は赤の哲学だ。
それを心に知りつつも、私たちは唯一絶対の赤色を諦めたくはない。それを見つけられるって信じてる。
だから哲学者のように深淵なる顔をして、
女の子たちは今日も赤色を探してる。