月組バウ『Golden Dead Schiele』にまつわるひとりごと
はじめに
ということで、バウ公演を観て、いてもたってもいられず、ヅカオタ歴研7にしてnoteを開設しました。🔰
ごくごく個人的な感想・解釈になりますが、お友達が配信を見てくれるまでにこの思いをまとめたい…!と筆を走らせております。(普通に間に合わなかった😅)
書きたいことはたくさんあるのですが、
とにかく熊倉先生、この作品を、このメンバーで書いてくださったこと、本当にありがとうございます……!!
毎公演、みるたび毎に、そんな気持ちが溢れて止まりません。
みるたび感じるものが変わったり、新しい気づきに出会ったり。
まさに芸術そのものをみているような、みているというより作品に呑み込まれるような、そんな稀有な経験をさせていただけることが、本当に嬉しくありがたい。
前置きが長くなりましたが、以下感想・解釈です。
1 演出家《熊倉先生》のみつめるエゴン
実在の人物に取材した作品でも、(複数回観劇の機会がある場合は)個人的に初日まで予習しないタイプでして。
というのも、できごととして、歴史で習うような《史実》はあったとしても、そしていくら書簡や日記が残っていたとしても、
その人物が真に何を思ったのか、言葉に込めた本当の意味は何だったのか、
現代に生きる私たちは、私たちの目を通して《解釈》することしかできないと思っていて。
(そもそも同時代に生きた人であっても、その人自身の目を通してしか解釈することはできないと思います。
その人のことは、その人自身にしか、真の意味ではわからない。いくら言葉を尽くしても齟齬が生じることもある……《他者》を完全に理解することなどできない。研究が進んで、《定説》ができていたとしても、それが正解だとは限らない。)
そういう価値観でおりますので、まずは史実や先行研究は頭に入れず、演出家の先生の目を通して解釈した作品を見てみたいと思っていて。
とはいいつつ、どうやら
というような前情報は耳にしていました。
どうやらこれはドロドロしてそうだと。
『ドン・ジュアン』のような愛憎を描いた作品や、『夢千鳥』のような人間関係を激しく、細やかに、そして色っぽく描いた作品(だからこそ夢二の孤独が際立つ)になるのではないかと。
今まで見たことのない、
大人の色気あふれる彩海さんが見られるのでは…?!
そんな期待をしておりました。笑
ですが、初日の幕が開いてびっくり!
意図的に、性を匂わすものを排除し、プラトニックに昇華させたとしか思えない演出の仕方!
あくまでも熊倉先生が解釈した、熊倉先生の目を通して見たエゴン・シーレ像がそこにはありました。
初日の幕が下りたときは、「とにかくすごかったけれど、どのように受け取ったらいいのだろう」と困惑してしまったほど…
(あまりに予想していたものと違ったので。笑)
ですので、これから観られる方(といってももう千秋楽も間近ですが)(追記:もう千秋楽も終わってしまいましたが)は、通説にとらわれず「熊倉先生はこういう角度からエゴンを描きたかったんだな…!」と、純粋に作品だけを観て、感じたいように感じていただくのがいいかなと思います。
(私は逆に通説のエゴン・シーレが気になるので、千秋楽が終わったらエゴンの映画をみてみたいと思います。きっと本作とは全く異なる印象になるんだろうなあ。)
※以下多大なネタバレ含みます。NGの方は「おわりに」へお進みください。
※セリフや歌詞は記憶によるところですので、間違っている可能性があります。バウだけどルサンク欲しい~~というか脚本がほしい~~><
ほんとう、熊倉先生の言葉の使い方と、《演じている》ことを忘れさせるような彩海さんのお芝居の融合がすんばらしいです。
「役と手をつないで」とあみちゃんはよく表現されるけれど(ドリタイの望海さん回を見ると泣ける)、客席でみている側には、役と演者が溶け合っているように見える……あみちゃんだけでなく月組さんのお芝居は全体としてそんな感じがします。それだけ熊倉先生の描いた役が、皆さんにハマっているということなのかなあ。でもそのお役をご自身の中に取り込むのは生徒さんだと思うので、やっぱり月組さんすごい。
※あくまで私個人の解釈であり、しかも時代情勢や史実を鑑みず書いています。ご容赦ください。
※繰り返し、ネタバレNGの方はご自身で回避お願いいたします。
(追記:もう楽も終わったけれど。さみしい!悲しい!スカステ放送まで楽しみに待ちたいという方は読まない方がいいかも?)
2 語りの構造(プロローグ)
幕開き。
物々しい雰囲気で、線描のダンサーたちがそれぞれポーズをとっています。
そこは「遺されたアトリエ」。英かおとさん演じる美術記者・レスラーが、白い布をめくりながら記憶を紐解いてゆきます。
布の下に隠されていたのは、タイプライター・イーゼル・鉄道のおもちゃ・舞台中央の巨大な絵画《死と乙女》・そして腰掛ける《死の幻影》――。
……エゴンをかたどる遺物たち。
レスラーは、《エゴン・シーレ》の伝記をタイプしながら、語りの口を開きます。
妹・ゲルティ、義母・ハルムス夫人、親友で義弟のアントンがセリフを語り、レスラーは地の文を語る。
その言葉――ゲルティの言葉に返答するのは(と書きましたが、言葉は発しません。ゆるやかで、かつ隅まで神経の通った動作で、エゴンの言葉を表現します)、先ほど布の下から現れた、彩音星凪さん演じる《死の幻影》。
タイプの手を止めるレスラー。
そして《死の幻影》に向かいながら問う。
*プロローグ
舞台中央に据えられた絵画《死と乙女》が吊り上げられていき、絵画と同じポーズをとった彩海せらさん演じるエゴンと、白河りりさん演じるヴァリが現れる。
ここの流れがほんとう秀逸で、美しく、毎回鳥肌が立ちます。
そしてエゴンは歌い始める…
エゴンが画壇に現れてから~クンストシャウで《銀のクリムト》と評されたこと~夢奈さん演じるクリムトとのデュエットダンス~そしてヴァリとの出会いという、一幕のあらすじが、レスラーの語りを背景としながら、音楽とダンスで表現されます。
クリムトとのダンスにおける、彩海エゴンの、とろけるほどの喜びをたたえた表情が印象的。クリムトの、うちに情熱を秘めた、けれども静なるダンスと、エゴンの、才能の芽吹きを体現するような動なるダンスの対比……
そして再びエゴンの歌。
*《語り》の構造~過去を物語る~
書き連ねたところからもわかる通り、
今作は、生前、エゴンと親しかった美術記者・アルトゥール・レスラーと、彼のパトロンの一人・エーリヒ・レーデラーが、エゴンの伝記を書くために、彼の叔父や親しかった画家仲間たちの語りを受けながら進んでゆく《語り》の構造をとっています。
1章で書いた通り、人はその人の目を通してしか、事物を解釈することは出来ない。
つまり《(他者である)人物を物語る》という行為には、語り手の主観、その人物への心象が――どれだけ排除しようと努力したとしても――入り混じる。
今作は、エゴンの死後、《彼をとりまく人々》の語りを受けて、
《レスラー》が記した――記そうとした、
《熊倉先生》の目を通して解釈したエゴンを、描いているといえるでしょう。
さらに語り手たちは《過去を物語る》という形をとる。
《過去を物語る》という行為からは、語る時点(エゴン亡き現在)と語られる時点(エゴンの生きた過去)での、語り手の心情の違いが表出されると思いますが、
エゴンを語る語り手たち――レオポルド・アントン・マックス――の、彼に対する感情の変遷を(そして、それは変化するまでに屈折した、複雑な感情を伴ったのだろうと)思わせる一言が、どれも染みる。月組さんのお芝居の上手さ。
《伝記》は歴史を描くわけではなく、その時代に生きた"ある個人"を描く、ごく私的なものだと思います。
私的なものだからこそ、《語り》に、語り手の、"ある個人"への感情が込められるのも、あるべき自然なこと。
語り手を複数配置し、同じ人物を語らせる――それによって、物語は(熊倉先生が解釈した)エゴンそのひとへと収斂してゆく。
お役のひとりひとりに割り当てられた役割、というよりエゴンを描く上での《機能》が、今作ははっきりとしていて。
すべての人物が、エゴンの方向を向いている、あくまでもエゴンを描くために存在させられている――と言うと、語弊がありそうですが。
正直、振り分けが出たときは、あまりに豪華すぎて
(新人公演主演をされた方が、あみちゃん含め5人もいらっしゃる上に、
上級生さんから下級生の子にいたるまで錚々たるメンバーだったので)、
お一人お一人のウェイトが軽くなってしまうんじゃないかな、とか、
見せ場が分散してしまうんじゃないかな、とか、
余計な心配をしていたのですが。本当、ただの杞憂でした。
あみちゃんが主演だったからこそ、
相手役のりりちゃん、二番手役のるねさんをはじめ、
このカンパニーだったからこそ、
そして熊倉先生の演出だったからこそ、
この作品はここまで豊かに息づいているんだなと。
カンパニーの皆さんがこの作品に巡りあい、
そしてそれを、観客として客席から見守れることが、
心から幸せで感謝の念が絶えません。
すこし脱線しました。笑
ストーリーテラーを配置して《語り》を取る作品は過去にもたくさんあるけれど、
幾重の《語り》によって描かれる――そしてその《語りの構造》が、作品に一種ペエソスを与えるような今作。
きちんと意図・意味をもって《語り》を取り入れていることが――演者の肉付けも相まって――みている私たちに実感せられて、熊倉先生の演出の緻密さにくらくらしてしまいます(ダジャレじゃないよ)。笑
3 《芸術家》としてのアイデンティティ――第一幕
さて、物語の内容に。
一幕で描かれるのは、ざっくり時系列で記すと、
といった感じでしょうか?
流れ自体は非常にわかりやすいので、「どういうこと?」となるシーンはないと思います。
ですが、そこに描かれる感情の揺れ方――価値観の変化――が、本当に緻密で。
あみちゃんのお芝居も繊細ですし(エゴンは尊大な人間なのに、それを表現するあみちゃんのお芝居がとても繊細なの、さすがとしか思えない。贔屓目もあるかもしれませんが><)、
熊倉先生の描いた脚本も、きっとひとつひとつの言葉を大切に、意味を込めて綴ったのではと思われるほど細やかで。
ともすると、エゴンは、自分勝手で、尊大で、独りよがりな画家と映るかもしれませんが、
一幕を通しての、《芸術家》としてのエゴン――《画家》から《芸術家》へのエゴンの変化を、ぜひ感じてほしいと思うのです。
ここでの《画家》とは、絵を生業として生きる人のこと。「仕事」として絵を描く人。(劇中の「絵描き」も同じニュアンスかな)
対する《芸術家》は、クリムトの言葉より、《自分の芸術を追い求める》人のこと。自分の芸術とは何か――苦しみながらも追い求めることのできる人。
一見、《画家》は《芸術家》の一種(《芸術家》という言葉が、《画家》なり《舞台》なり《音楽》なりを内包する)のように思われますが、
実は反対で、《画家》の中に真の意味で《芸術家》たる存在がいる。(同時に、《舞台》なり《音楽》なりの創作者の中に、《芸術家》と呼ぶべき者たちがいる。)
そのことへの気づきと、《自分の芸術を追い求める芸術家》としての主題が提示されるのが、第一幕のテーマかなと感じます。
(もちろんあくまで私の感じ方ですが)
*少年期~家族との訣別
さて、物語を《語られる時点》へと巻き戻すのは、叔父・レオポルドの以下の語り。
静音ほたるさん演じる少年エゴンと、八重ひめかさん演じる少女ゲルティが、トゥルン駅を見下ろしながら歌います。
(個人的なお話。B席のサイドから見た、『ひかりふる路 / SUPER VOYAGER!!』で、当時の雪組に、そしてあみちゃん(日記の少年)に出会って、宝塚の美しい沼にハマってしまった身といたしましては、ほたるちゃんが当時のあみちゃんと同じセーラー服を着ているの、胸が熱くってたまらなくなります。日記の少年の、ライトを浴びて星のごとく輝く瞳……今でも覚えてます、時を戻せるならもっかい劇場で見たい。。
…………脱線しました。)
華やかなメロディ。淑やかな男女が行き交うトゥルン駅。
エゴンの出自が華やかなものであったことが印象付けられます。
桃歌さん演じる母・マリーのあたたかな歌声。
母親として子供たちを愛する(普遍的な母としての)気持ちが伝わってきて、けれどのちの展開を思うと泣けてしまうような。
エゴンの言葉の外にある、「《描くことが》大好きだ」という主題が、
しかし母の願い――鉄道局員の息子として、そして将来その後継となる者として、鉄道を愛してほしい、という願い。それは同時に「家」を愛することへの願いでもあるのかな。――とこの時点ですでにすれ違っていて。切なくなります。。
目の離せない子供を咎めるような、しかし重たい父の言葉。
むくれた少年エゴンを、少女ゲルティが励ますように笑いかける。
そんな一連のお芝居がかわいくて、ゲルティはお兄ちゃんが大好きなんだなと…そりゃエゴンも妹をかわいがるよね。劇中のエゴンとゲルティ(というかゲルティ)はなかなかつらいけど、、涙
そして少年エゴンと少女ゲルティが客席に背を向け、互いの肩にもたれている、その後ろから同じように背を向けた、彩海エゴンと澪花ゲルティが登場する。
(ここの演出も、全ツ版『SUPER VOYAGER!!』DIARYの望海さんとあみちゃんを彷彿とさせてエモい、、)
そして再び父との対峙。
自身が望む、《鉄道局員の息子として》の道とは異なる選択をしようとするエゴンに怒った父。彼はエゴンの描いた絵を燃やしてしまう――。
「見て、僕の絵。」に込められた、自分の目指す――目指したい道で"父に認めてほしい"という、子供として普遍的な感情。しかしその思いは認められず、エゴンは、望んでもいない工学の勉強をするために、ギムナジウムに入れられてしまう。
そこでエゴンは落第生。生徒たちからは、勉強ができないことも、絵ばかり描いていることも馬鹿にされ、いじめられる。
(脳内で歌いながら書き起こして改めて思ったんですが、今作の音楽、あみちゃんのアカペラで紡いだり、伴奏に刻みのリズムがなく、あみちゃんの中でテンポをとるしかないような難曲が多くって、思いを乗せて歌い上げつつしかし録音に合わさないといけない…というの難しすぎん??
大劇場公演だと指揮者が芝居の呼吸に合わせてくれる(歌い手に伴奏が合わせてくれる)こともあるけれど、録音だと芝居の呼吸を録音に合わせに行かないといけないので。
オーケストラの演奏で・生音で聞いてみたいと思うくらいの、歌への心の入り方…お芝居の延長に歌があって、歌の延長にお芝居があって…ということを感じさせる力。)
三拍子のリズムとともに、舞台中央に据えられた鏡の中の《死の幻影》が、ゆったりと動き出す。
《死の幻影》は、鏡の中でエゴンと同じ動きをしながらエゴンを睨み、それに怯えて鏡から身を背けるエゴンのもとへと、ゆっくり近づいてゆく――。
彩音さん演じる《死の幻影》。
たたずまいや表情、ふわりとそしてひんやりと、その体のまわりに見えない異質な空気をまとっているような。
このお役についても書きたいことがありすぎるのでのちの章で。
一緒に見に行ったお友達は、高確率で彩音さんに落ちてました。わかる。でもあみちゃんの感想も聞かせて。涙
(追記:大劇場公演千秋楽。ご卒業される彩音さんのメッセージの中に、本作を集大成とできるように、というコメントがあり、それを聞いた瞬間、ぶわっっと涙があふれました。あみちゃんの組替えにともなって月組ファンになった身なので、月組歴は長くないのですが、そんな私でも彩音さん=踊りの表現がすんばらしいことは知っていて。短い月組歴で拝見した彩音さんの踊りの表現の中でも、ひときわ《死の幻影》がすばらしかったと感じていたので……。ご本人もこのお役にすべてを出し切ってくださったのだと感じて、すごくぐっときたのでした……)
エゴンの怯えた表情、苦しげな表情が印象的。
激しいダンスのあと、エゴンはギムナジウムでクラスメイトにぐしゃぐしゃに丸められた、自身の描いた絵をみて、はっとしたような、思い詰めたような表情を浮かべます。
やがて、父が亡くなったことを母から告げられる。後見人は、語り手である叔父・レオポルド。母は「よかったわね、これで勉強が続けられる」。息子の将来が安定したものであることを願っているからこその言葉。父の後を継いでほしいとの願いも。だが、その母として普遍的な願いは、《画家になりたい》エゴンを苦しめるものでしかない。
孤独なひとりの少年の、ぽつりと洩らす言葉。
消え入りそうで、儚くて、せつなくて。
それを受ける母・マリーの表情がまたいい。
母として、息子に安定した将来を送ってほしいと願う気持ちも、
エゴンの、《画家》の道を進みたい気持ちも、どちらも共感できるからこそ。……その響きを表情を思い出しているだけで、胸がきゅっとなります。
*《芸術家》としての目覚め
場面はがらりと変わって夜の酒場へ。
羽音さん演じる踊り子・モア・ナイミュールが、夜の雑然とした雰囲気へ艶っぽくいざないます。
すらっと長身でエキゾチックな感じのみかこちゃん。吐息混じりの歌声も色っぽくて素敵。彼女と絡む男役さんたちのセクシーな目線が、《プラトニック》を突き通すエゴンとの対比としても機能していると思います。
(宝塚の色っぽさって艶やかで美しいのがほんとういい……肉感的なリアリティというより甘美で嫋やかな感じ。夢に酔える感じ。)
モアの歌が終わったところで、エゴンとレスラーが酒場に入ってくる。
旅興行を終えたドムと、画家仲間アントン、マックスたちとの会話。
クンストシャウで一躍注目を浴びるようになった、そのことを象徴づける《銀のクリムト》。謙遜しているようで全く謙遜していない「ただ褒められただけだ」の言葉。そのときのエゴンの誇らしげな表情。かわいい。
そして仲間たちに語る。
「いいか、よく聞けよ。画廊主のピスコさんとの話はつけた。12月には我々の展覧会が開催されることになった!」
興奮に沸く仲間たち。
だが、エゴンは後見人の叔父――つまり金銭的援助をしてくれる存在――に対して、アカデミーを辞めたことを伝えていない。「金なら何とかする」と彼は言うが……。
クリムト"みたいな"《新しい芸術》――。
クリムト"みたいに"ではなく、目指すべきはクリムトその人。
だからこそ《銀のクリムト》はこのときの彼には賞賛の言葉であり、二幕では呪いに変わる……
このシーンから《画家》ではなく《芸術家》という言葉が使われ始めることの意味。
エゴンの中でも、職業としての《画家》ではなく、何か新しいものを目指したい――しかしその《新しい芸術》は、エゴン自身に未だ掴めていない――そんな、《芸術家》としての目覚めが、このシーンに描かれていると思います。
マックスはエゴンの「クリムトみたいな《新しい芸術》」の言葉を受けて、彼らの展覧会を「新芸術集団展」と名付ける――。
若い力――役としても、タカラジェンヌとしても――が青春そのもので、まばゆくって。仲間たちに囲まれながら、スポットライトを浴びテーブルに乗って歌うあみちゃん……(フィナーレを除き)登場のシーンよりも何よりも「真ん中」であることを実感して、泣ける。
「画家っていうのは羨ましいなあ」とこぼすドムに、「君たちの《踊り》も《舞台》も芸術じゃないか!」と返すエゴン。彼はレスラーに対しても言う、「あなたも仲間だ! オーストリアはパトロンの街だ。あなたがいなければ、《新しい芸術》は生まれない」
(このシーン。宝塚が110年、ファンとともに歩んできた文化であることを思わせて泣ける。
2月2日の、このセリフを引用したあみちゃんのご挨拶がとてもあたたかくって、色々なつらいこと苦しいことがあるけれど、やっぱり宝塚を、そこで輝く生徒さんたちと舞台作品を、応援しつづけたいと感じました。)
レスラーの語りの響きがまたいい。
エゴン亡きあとの《語りの現在》に戻りながら、しかし《語られる過去》の時点と《現在》の感情が溶け合うような…あたたかな懐かしい気持ちを思い起こすような…
ああ、お芝居っていいなあと思う語り。
客席を呑み込む、酒場の熱狂の渦。
拍手が引き、ゲルティが入ってくる。そこには叔父の姿。
エゴンがアカデミーを辞めたことを聞いた叔父は激怒する。
(正直お怒りになるのもごもっともだと思います……。
生前父に対して、「僕ならウィーンの美術アカデミーだって…」と語っていたところからのエゴンの心の変化を、家族は知らないんだもの……。
《他者との対話の欠如》が本作ではまざまざと描かれていて、ちょっと苦しくなる、、)
先の「新芸術集団」のシーンで、《新しい芸術》――しかしそれが何なのかエゴン自身にも掴めていない――への主題が提示された中でのセリフ。
ここで《画家》という言葉が再度用いられるのは、エゴンに《芸術》が未だ掴めていないことの表れと感じます。
金がなくては画家を続けられない、
しかしアカデミーで学ぶようなのではない、何か新しい芸術――それが何なのか未だエゴンには掴めていないのだけれど――を目指したい(しかしそうするには金がいる)。
二幕につながる、画家としての夢と現実――芸術家であることと、そのためになくてはならない金と――の主題を思わせるシーン。
ともあれ、叔父と訣別したエゴンは、展覧会開催のための金を自身で用意しなくてはならなくなります。
……ところ変わってアトリエ。
踊り子・モアが肢体をしならせポーズをとります。
エゴンは彼女を鏡に映して描く。「どうして鏡越しに描くの」と尋ねる彼女に、エゴンは答える。
うつくしい横顔のうつくしい唇から、ぽつりぽつりとこぼれ落ちる象徴的な言葉たち。
エゴンの絵画、人生、そして本作のテーマの一つに、《自己をみつめる》彼の姿があると思うのだけれど、それを感じさせる言葉たち……
彼の言葉を受けたモアは、「あなた、ナルシスト?」と揶揄し、「ねえ、休憩しない?」と誘う。
エゴンは「君のモデル代は時間で決めている」「ポーズを」と、あくまでモデルを続けることを求める。
そこにマックスとアントンが訪ねてきて…モアはエゴンを「つまらない男」と一蹴する。……
踊り子――それは大衆の欲望の象徴でもある――として夜の雑念とした雰囲気をまとうモア。そしてエゴンの《芸術家》としての兆しの言葉を理解し得ない俗な女として描かれるモア。
彼女とは対照的に《プラトニック》を突き通すエゴンの姿――そして熊倉先生が意図してそう描こうとしたという事実――が、より鮮明に映ります。(正直、初日は色っぽいシーンが始まるのかなって期待しました。小声。笑)
訪ねてきたマックスとアントンが口にするのは、展覧会を開くための金のこと。批評家や金を出してくれそうなパトロンを回った二人だが、どうにも状況は厳しい……。
「今なら展覧会も取り下げられるんじゃないか」と持ちかけるマックス。エゴンは、「名前を上げるチャンスだ。せっかく浴びた注目を、ここで切らしたくない」と拒否。悶着の末、「金ならなんとかする」と、エゴンはクリムトの元へ向かうことになるのでした。……
*クリムトとの対話――己の芸術
幻想的で神秘的な音楽。やわらかな光。
白く清らかな衣装に身を包んだ、美しい乙女たち。
晩年のクリムト。……老いた、どこか人智を超越した雰囲気すらある……
――がらっと場面は変わって、そこはクリムトのアトリエ。
時の流れがそこだけゆったりとしているような……現実から切り離されてしまったような……
夢かうつつか、それこそ子羊のように彷徨ってしまいそうな……
そんな世界が広がります。
舞台という《虚構》の上で《夢》をみる構図と、客席=現実の側から《夢》のような異空間をみつめる構図と。二重に夢うつつの気分。
……乙女たちは去りゆき、ヴァリから声をかけられたクリムトは夢から醒める。
アトリエの時の流れを体現したかのような鷹揚としたクリムトと、素直で清廉なヴァリ。
「君は使用人じゃない」と告げたクリムトは、ヴァリを残して奥に水を飲みに行く。……
有名な画家であるクリムトと、雇われのモデルであるヴァリの、ともすると主と従に見える可能性を否定する一言。
それはヴァリとエゴンの出会いをもたらすものでもあり。
二重に機能する言葉の使い方がいいなあって思います。
クリムトと入れ違いに、エゴンが訪ねてくる。応対するヴァリ。
「あなた、もしかしてエゴン・シーレ?!」の言葉に誇らしげな笑みを浮かべるエゴン……かわいい。
初対面のぎこちなさは残しつつ、けれどヴァリの言葉がたしかにエゴンの心に触れたのを印象づけるシーン。ヴァリの素直な声色と、エゴンの戸惑うような表情がいい。
そこへクリムトが戻ってきます。展覧会を開くための金を無心しに来たエゴンは、話しづらそうに口を噤む。それを察したクリムトは、ヴァリを下がらせ、エゴンの素描をみる。
「タヒチの娘をモデルに書きました」と告げるエゴン。クリムトは「ゲルティはどうした」と尋ねる。……
静かな対話。
しんとした静寂の中、クリムトのやわらかな声が響く。
その後のエゴンの《芸術》を、人生を、たしかに変えた――変えてしまった――クリムトの言葉。
エゴンが《死と乙女》を描き得たのは、
表題《Golden Dead Schiele》になり得たのは、
クリムトとの長い対話があったからであり、
だからこそ彼の人生には苦悩がつきまとうのであり……
甘やかな包み込むようなやさしさの中に、ふと、ひどく現実的な残酷さを感じてしまうのです。
芸術家としての彼にとっては僥倖であったとしても、一個人としてみつめたときの彼にとっては……どうだったのだろう。そんな風に考えてしまう……
晩年のクリムトと、研14の――男役10年と言われる世界で14年間歩み続けた――るねさんの姿が重なり合う。(直近『フリューゲル/万華鏡百景色』でれんこんちゃんが退団されたこともあり、大劇場の集合日がすごく怖かった……新しい月組にいらしてくださることがほんとにうれしい>< カテコであみちゃんのほわほわ挨拶を見守るるねさんの表情がほんっとうにあたたかくて。包容力にあふれていて……見てるとなんだか泣きそうになったのでした……脱線。)
エゴンが才能の終焉を《最期の瞬間》ととらえていること。
それは少年期から《死の幻影》を感じ続けてきた彼ならではの感性だと思います。
「絵が描けなければ生きる意味がないんだ」と繰り返してきたエゴン……
若く才能あふれる――そしてそれが未来に開花することが予想せられる――エゴンと、自身の黄金時代を過去にとらえるクリムトとの、歩みの対比。
クリムトからエゴンへの言葉が、
熊倉先生から男役・彩海せらへの言葉に重なり、
ひいては舞台から客席の私達への言葉としても重なり。
舞台から受け取るメッセージが、あたたかくてやさしくて。詳しくは書きませんが、当時どん底にいた私は泣けて泣けて仕方ありませんでした。
誰かの真似をしても《金》にはなれない。
《新しい芸術》を問わなければならない。
そのために自分自身と向き合うこと。向き合い続けること。
エゴンの《芸術》の、人生の主題が、たしかに提示されたシーン。
舞台はやわらかな光に包まれ、――暗転。
暗幕の前。
展覧会が終わり、失望の面持ちで集う《新芸術集団》。
先の「新芸術集団展」の評判は散々。
エゴンは「《銀のクリムト》は跡形もない」と評されます。
ここでもやはり、《他者との対話の欠如》が浮き彫りになります。
彼らが知っているのは、《銀のクリムト》と評され自慢げなエゴンの姿。
クリムトとの対話――自身の《芸術》を追い求めるべきだという言葉、《銀のクリムト》ではなく《金》を目指すべきだという言葉――を、彼らは知らないのだから。
そうと知らずに酒場に現れたエゴン。
「新聞から批評の嵐だ。お前の絵じゃなくなったって」と聞いた彼は「今までが僕の絵じゃなかったんだ!」と反論する。
掴みかかるマックス。
七城くんの気迫が日に日に増して、ひりひりとしたのを思い出します。(あみちゃん・七城くん・るおりあの並び……とくにこのシーンの、対立するあみちゃんと七城くん+二人を見守るるおりあの構図が、
ギャツビーの新人公演を彷彿とさせる……
あみちゃんと七城くんの「神の目」観たかったな~~)
真っ向から対立するエゴンとマックス。
「違う景色が見たい」と叫ぶエゴンにも、「まずは受け入れられる絵を描くべきだ」と説くマックスにも、それぞれに正義があって、どちらが間違っているわけじゃない。そのことがすこし苦しい……。
そしてエゴンは啖呵を切る。
エゴンの言葉を聞いてマックスは酒場の連中に問いかけます。
「みんな、あの絵が芸術だと思うか?」
返ってきたのは気まずげな沈黙。エゴンはちらりと傷ついた顔を見せて、しかし尊大にその場を去るのでした。……
《語り》の現在に時を移して、マックスとアントンが回想する。
先の章でも書いた通り、《過去を物語る》行為には、《過去》とそれを物語る《現在》における語り手の心情の変化が、まざまざと表れます。
怒りの感情を爆発させてエゴンに掴みかかった《過去》。それよりは穏やかな、けれど複雑な想いを滲ませる《現在》。うーん秀逸。
エゴンはその後ウィーンを去り、母の故郷であったクルマウの町へ移る。彼はそこでいくつか風景画を残しているが、題名はすべて「死せる町」であった。町の人たちはエゴンを変人扱い。逃げるようにしてもっと小さな村へと移り住む。そこがノイレンバッハであった。……
*ノイレンバッハでの日々~事件とヴァリという《光》~断罪
楽しげな子供たち。
それをみつめるエゴンのやわらかな瞳。
穏やかな光。
そこへ彼女が訪れます。
いつかクリムトのアトリエで出会った素直で清廉な――そして印象深い言葉を残したモデルのヴァリ。
彼女はクリムトから言われてやってきたという、「ウィーンから来るのも一苦労」な片田舎に。
「あいにく子供たちをモデルに使うほど金がないんだ、僕には」とエゴン。ヴァリは「モデル代はグスタフからもらっているわ」と答える。
エゴンのアトリエを見たヴァリは、「こんなにたくさん!」
アトリエを占めていたのは、ヴァリの予想に反して子供たちの素描や自画像ばかり。
けれども新聞や批評家たちがみるのは、過激な女性画という側面ばかり……
「人間そのものをとらえたい」――セリフとしてはっきりと、エゴンの描きたいものが明言される。
自身を描いたそのうしろに取り憑いているのは《死の幻影》……。
それを「今の僕そのもの」だと表現するエゴン。
「わたしはどんな風に描くつもり?」と尋ねる彼女に、エゴンは「君を描くとはまだ決めてない」と答える。
ぽつりとぽつりと声にするエゴン。なんだか叱られた子供のようで、いとおしくなる。そんな彼に対して「たまたまよ」あっけらかんと笑うヴァリ。
素直で飾らない、誰に対しても開けている彼女の姿が、エゴンの、他者に対して閉じている……理解できないならそれでいいと、壁を築いている姿と対照的に映る。
ヴァリは自身の出自を語る。
幼い頃、教師をしていた父が亡くなったこと。母と二人でなんとか暮らしてきたこと。その母も一年前に亡くなったこと。
ウィーンに出てきたのは仕事を探すためだったこと。飢える寸前でクリムトに拾われたこと。……
辛い思いもたくさんしてきただろうに、語る声音はけっして湿っぽくならない。健気で、そして凛としたヴァリ。すてきな人だなあと思う、ほんとに。
「あなたは? 画家なんてするくらいだからブルジョワの出身?」と明るく問われたエゴンもまた語る。
父が鉄道局の幹部だったこと。その父が亡くなったのをきっかけに家を出たこと。
金。それは家との確執を表す記号。
死後、彼の叔父がレスラーたちに向かって言い放った「絵なんていくら描いても大した金にはならんよ」。
世間から認められていること。安定した生活を送れること。
それが、「家」が彼に望むものであり、「金」という言葉で表される。
幼いころからの「父に認められたい」気持ちがあまりに一途で、なんだか切なくなります。
あみちゃんとりりちゃんの間の取り方がなんとも絶妙で、すごくすきな掛け合いでした。
おずおずと、孤独な少年のままに「また来てくれる?」と問うエゴン。鈴のような声で「もちろんよ」と肯定するヴァリ。エゴンの抱える陰の部分を、やわらかに包み込んでくれる光の存在。
――落雷。
風が吹きすさび雨が窓を打つ。
荒れ狂う嵐に似つかわしくない、楽しげな二人。
「世界に僕たちしかいない」。……甘やかな夢のような言葉。
そこへノックの音が響く。
ドアを開けると、びしょ濡れになった少女の姿が。
彼女は「助けてください」とすがりつく。
彩姫みみさん演じるタチアナの絶唱。
(あとから研2と知り驚きました。休演日を挟んで折り返し地点からのタチアナ、特にすごかった、感情の入り方が……)
「こんな少女を匿ったらなんて言われるか……」「届け出ないと私たちが捕まるわ」とヴァリ。エゴンも「それはわかっている!」と答えながらも、「だけど彼女を見捨てたくない」。
結局一晩泊めて、翌日のウィーン行きに彼女を伴い、祖母のもとまで届けることにしたのでした……。
幕前。
ヴァリの苦しげで健気な表情。
レスラー、クリムト、マックス、アントン……様々に感情を滲ませる彼ら。
嵐の晩、助けを求めにきた少女を保護しようとしたエゴンは、誘拐の容疑をかけられ捕まってしまった――。
「逃げられない」「手出しできない」と目を逸らす大人たち。
「潮時か」「そういう運命だ」と皮肉に嗤うかつての仲間たち。
ヴァリのまっすぐで切実な声が、ひときわ高く響く。
その後ろでゆったりと這いつくばり、天を仰ぎ、うなだれるエゴン……。
面会に来たヴァリ。「レスラーさんはどうだった?」とエゴンは尋ねるが、彼女はうつむいて瞬きをする。「グスタフは?」
すがるような、捨てられた子供のような声音。胸がきゅっとなる……。
うずくまるエゴン。
「あなたは無実だわ。わたしは信じてる」「自分を責めないで。あなたは正しいことをした」「あなたは悪くない!」
けれどもヴァリの言葉はエゴンをすり抜けてゆく。
エゴンはここではないどこか遠くをみるともなくみつめ「どうして」と繰り返す……。その瞳に光は宿らない。ぼんやりと泥のような瞳。深く深く澱んだ瞳。
彼の心をその場に連れ戻すのは、けれどやはりヴァリの言葉。
ヴァリを見あげる。ヴァリを映して――瞳に宿る光。
光の――彼の瞳の、あるいは床に置かれた紙と鉛筆を照らす照明の――射す瞬間が、あまりにきれいで。
彼女が去ったあと、光のもとへ……紙と鉛筆へと手を伸ばし、みつめる……それだけの動作がひどく美しい。
絵画の神様。
それに向かってエゴンは問いかける、「なぜ僕をこんなにも苦しめるのだ」と……。自身の選択の連続の上に悲劇が開かれたのではない、これは絵画の神様の与えた試練なのだと……。
「僕と共に生きる」(『歌劇』3月号より引用)と形容された線描のダンサーたちがしなやかに踊る。エゴンが両手を広げ宙を仰ぐ――それに寄り添う、あるいは纏わりつくダンサーたち。十字に架けられたように見えて、ぞっとしてしまう……。
決して負けはしない 僕は僕の絵を描いてやる
どんな逆境に 立たされようと――
舞台に広がる赤い布。罪の赤、炎の赤……。
大きなセットの、その頂上に、ゆったりと裁判長が現れる。鉄道局員の――絵具に塗れた――制服に身を包んだ父の姿。
エゴンと父を照らす、ピンスポット。
父と対峙するとき、ふと垣間見えるエゴンの幼さ。自身の選んだ道で――《芸術》で――父に認められたいという、子供として普遍的な感情……少年の頃から変わらぬ感情。けれどもその願いは叶わない。祈りは届かない。
それどころか、「選択の失敗」だと切り捨てられる。すべては「絵画の神様」の与えた試練などではなく。
苦悶の表情を浮かべるエゴン。彼の背後にゆったりと迫る《死の幻影》。
それはエゴンをにらみ、離さない。ダイナミックなダンス。
赤い赤い炎に舞う、エゴンの絵画――。
――絶望。
そうとしか言い表せないエゴンの表情。
「焼却処分」の言葉を聞いたその刹那、すうっと瞳から光が消えて、呼吸が止まる。その瞳の、闇の深さ。
(あみちゃんといえば死に際のお芝居に定評があるのを思い出しました。瞳の中に星空を湛えたような、というより瞳そのものが内から光っているような……それなのに死ぬ瞬間の、瞳のハイライトの消え方がお芝居と思えない。)
《死の幻影》に抱かれ、エゴンはごうごうと燃える炎の中へ。
逃がさず焼き尽くさんとばかりに彼を雁字搦めにする赤い炎。
舞台芸術として、あるいは立体の絵画として。
一幕ラストのこの瞬間が、あまりに美しく、あまりにも残酷で、みるたびに胸がざらざらと粟立ちました。
断罪――けれど作中の彼はなぜに裁かれねばならなかったのか。
ただ絵を描きたいだけなのに――両親からは認められず、叔父からは見限られ。
自身の《芸術》を追い求めたいだけなのに――新聞には散々に批評され、仲間からは孤立して。
ただ少女を救おうとしただけなのに――誘拐の罪に問われ、絵を燃やされて。
けれどもそれらの苦しみは、決して彼の問いかける「絵画の神様」が与えた試練などではなく、彼なりの正義――それはときに御伽噺や夢物語のような子供っぽさを帯びる――で生きてきた、その選択の行き着く先なのだと思うと、すごく苦しい。
かなしい、というのとはすこし違う、胸が押しつぶされるような、ぐちゃぐちゃになってしまうような、この感情。
エゴンは救いを求めるように右腕を伸ばす――それは彼の信ずる"絵画の神様"へ、だろうか。
けれども彼は何をもつかめず、苦悶の表情のまま、一拍おいて――暗転。
ここから先は
¥ 500
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?