西行の足跡 その53

終焉の条
 
51「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」 
 新古今集・羈旅987
 年老いてもう一度越える日が来るだろうなどと思っただろうか。まさしく「命」だったのである。この小夜の中山を越えさせたのは。
 
 西行は二度平泉に旅をした。旧東海道の日坂宿と金谷宿の間にある小夜の中山峠は、急峻な坂の続く街道の難所であった。だから、西行は旧東海道を二度往来したのだろう。
 
「命なりけり」というのは、古今集の次の歌を引いている。
「春ごとに花の盛りはありなめどあひ見むことは命なりけり」 
 古今集・春下
 春の来るたびに花は盛りを迎えるのだろうが、その花に逢えたまさしく私の命次第だったのだ。
 
 さらに、有名な次の漢詩も意識しているようだ。
「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」 
 和漢朗詠集・無常・宋之門
 一期一会のありがたさ、「命」としか言いようがないものによって、花の盛りに逢うという、運命的なものを見た、ということであろうか。
  
 和漢朗詠集では宋之問(そうしもん)の作となっているが、一般的には劉希夷(りゅうきい)作の「代悲白頭翁」(白頭を悲しむ翁に代わって)という漢詩だとされたいる。「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」の句を、舅の宋之問が気に入り是非譲って欲しいと言った。劉季夷は、一度は承知したが、その後、惜しくなり断った、宋之問は怒り下男に命じて劉季夷を(土のう)で圧死させたと言われている。
 いずれにしても、この漢詩は花や人間のみならず全ての生物の命の儚さをよく表している。まさに、無常の思いである。
 
 それにしても、なぜ西行は小夜の中山を特に取り上げたのだろうか。
「甲斐が嶺をさやにも見しかけけれなく横ほり伏せる小夜の中山」 
 古今集・甲斐歌
 甲斐国の山々、あの美しい白根山などをはっきりと見たい、と思っていた。それなのに心なくも横たわって眺望を妨げている小夜の中山よ。
 
「東路の小夜の中山なかなかに何しか人を思ひ初めけむ」 
 古今集・恋二・紀友則
 東海道の小夜の中山のちょうど道程半ばにあるように、なまじ中途半端に、どうしてあの人のことを思い始めてしまったのだろうか。




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