西行の足跡 その12

10「吉野山去年の枝折の道かへてまだ見ぬ方の花を尋ねん」 聞書集・240
 吉野山では去年も花見をした。その時にも深く分け入って枝折しなくては帰れなかったが、今年はまたあらたに枝折をつけて、まだ見ていない方角に花を尋ねよう。
 
「身を分けて見ぬ梢なく尽くさばやよろづの山の花の盛りを」 
 山家集上・春・74
 諸仏は釈迦の分身というが、私ももう一人の私を作って、全ての梢を見尽くしたい。どの山の花の盛りも見落とさないように。
 
 この二首は、あらゆる女性を追い求めたドン・ファンのように、花を見尽くしたいという桜への愛に満ちた西行の気持ちが良く分かる歌である。ただ、私たち一般の人間は、西行の気持ちが理解できても、そこまで桜を愛しているというわけではない。普通の人は、近所の桜を見たら、それで満足なのだ。吉野に咲く桜は美しいだろうが、時間と金と苦労を尽くしてまでも見たいとは、普通の人は思わないだろう。
 
 さて、次の二首はどうだろうか。
「吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらん」 
 山家集中・雑・1036
 吉野山に入山してもすぐには下山しないつもりでいたのに、花が散ったら帰ってくると、都の人たちは待ってくれているのだろうか。
 
「いざ心花をたづぬといひなして吉野の奥に深く入りなむ」 松屋本726b
 さあ心よ。花を尋ねると人には言いつくろっておいて、こっそり吉野の奥に深く入ってしまおう。
 
 何か「吉野の奥」に大変な価値を見いだして、そこの花を追い求めたようにも思える。西行は桜の花にも執着しているけれど、吉野にも執着している。一体、吉野の奥には何があると言うのだろうか。
 
 西行は、和歌と修験を結びつけた先人として、園城寺の行尊大僧正を崇敬していたと言う。
「もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知るひともなし」 
 金葉集・行尊
 山桜よ、私がお前を美しいと思うように、お前も私をそのように見て後れ。ここ大峰山中では、修行する私の心を知るものはお前の他にはいないのだから。
 
 行尊が詠んだこの歌は百人一首の第66番歌としても知られている。
 ところで、行尊という人は三条院の曾孫なので皇族の出身である。修行を重ねて鳥羽天皇護持僧、熊野三山検校、天台座主、大僧正にまでなった。81歳でお亡くなりになったが、ご本尊の阿弥陀如来に正対し、念仏を唱えながら目を開けたままの姿でお亡くなりになったそうだ。
 
 ここで、行尊という人がどのような人物であったのかを見ていこう。
園城寺は天台の教えと神道の教えを融合させていたが、純粋な天台宗の総本山の延暦寺とは仲良くできなかった。行尊が26歳のときに、園城寺は比叡山延暦寺の僧兵の襲撃を受けて全焼する。それから行尊は修行を重ねて権僧正になる。行尊が67歳のときに、比叡山の併走による再襲撃を受けた。やがて、行尊は大僧正になった。そういう行尊大僧正に西行は憧れていた。だから、西行は「吉野の奥」に執着した。
 
 吉野の奥には安禅寺というお寺がかつてはあったが今はない。その安禅寺と山上の中間には、百丁茶屋(二蔵宿)があり、そこで行尊の名前が刻まれた卒塔婆を見つけたという。
 
「あはれとて花見し峯に名を留めて紅葉ぞ今日はともに降りける」 
 山家集中・雑・1114
 花の美しさに感動した大峰に行尊は普及の名声を残したが、その名の刻まれた卒塔婆に今日は美しく紅葉が散りかかる。この紅葉も有名になるだろう。
 
 西行はまだまだ行尊への思慕を詠むことをやめない。
「露もらぬ岩屋も袖は濡れけりと聞かずはいかに怪しからまし」 
 山家集中・雑・917 
「笙(しょう)の岩屋は雨露が全く漏れないはずなのに、私の袖は法悦の涙の露で濡れてしまった」と詠んだ行尊の歌を、もしも知らずにこの地に立っていたら、私はこの私の袖を濡らす涙をどう説明したらよいか分からなかっただろう。
 
 この歌も行尊が詠んだ次の歌に依っている。
「草の庵になに露けしと思ひけんもらぬ窟も袖はぬれけり」 
 金葉集・雑上・行尊
 草庵ばかりをなぜ露っぽいと思い込んだのだろ。雨露が漏らないはずの窟でも、涙の露で充分に袖は濡れてしまうのに。

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