『和歌史』なぜ千年を越えて続いたか 渡部泰明 角川選書出版 その10
西行
人はだれしも必ず死ぬ。しかし、死ぬ日時、環境、場所などの条件は未知のものであり、自分で勝手に設定したり、選んだりするものではないし、選べるものでもない。だが、驚くべきことにほぼ自分の望む条件で死んでいった人間がいる。それが西行だ。
「願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月のころ」
山家集上・春・77
西行は、文治6(1190)年2月16日に73歳で亡くなった。現在の3月中旬以降の満月に該当し、桜の花も咲いている。最高の死に方であろう。また、驚くべきことでもある。
私は、この歌を知ってから、西行という歌人を知りたいと思った。私は小林秀雄が描いた西行を読んで、西行という歌人は素晴らしい歌人だとは理解していたものの、専門家ではないのでどのように理解すれば良いのか、体系的にどのように読み込めば良いのかなど分からなかった。
小林秀雄は「西行」の中でこう書いている。(原文の通り旧仮名遣い)
「如何にして歌を作らうかといふ悩みに身も細る想ひをしてゐた平安末期の歌壇に、如何にして己を知らうかといふ殆ど歌にもならぬ悩みを提げて西行は登場したのである。彼の悩みは専門歌道の上にあつたのではない。陰謀、戦乱、火災、飢饉、悪疫、地震、洪水、の間にいかに処すべきかを想つた正直な一人の人間の荒々しい悩みであつた」
小林秀雄が書いたこの一節を読むと、道元の『正法眼蔵』の「現成公案」の一節がなぜか浮かんでくる。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝとは、万法に証せらるゝなり」
訳 仏道がわかるとは、自己究明によって自分が分かるということである。自分が分かるとは、自分を忘れる(自己への執着を離れる)ことである。自分を忘れるとは、仏法の方から自分が証明されるということである。
私には、西行はこのように思っていたのではないかと思えるのだった。
「和歌をならふとは、自己をならふ也。自己をならふとは、自己をわするゝなり。自己をわするゝとは和歌に証せらるゝなり」
「仏道」を「和歌」に入れ替えれば、まさしく西行の思いに沿っているように思える。しかし、西行は「自己をわするゝ」つまり、「和歌をわするゝ」ということができなかったのだ、と私は思っていた。
私のこの解釈や思いが正しいかどうかは分からないままでいた。しかし、西行が訪れた歌枕の数々とともに素人の私にもよく理解できる道案内になりうる良い本が見つかった。
それが、『ビギナーズ・クラシック日本の古典 西行 魂の旅路』西澤美仁(よしひと)(上智大学文学部国文学科教授)である。そこで、長年の願いであった西行を理解するという行為を、この本から学んだ西行に関することを、私なりにまとめてみた。
西行は1118(元永元)年、名門の武士の家に生まれた。俗名を佐藤義清という。上皇を警護する「北面の武士」という役職について働き、蹴鞠や馬術にも優れていたという。結婚して二人の子どもがいたが、23歳のとき、突然出家してしまう。年をとり、人生の酸いも甘いも噛み分けた老人ならいざ知らず、前途ある若い武士がすべてを捨てて仏門に入ることは、当時の人びとにとっても驚きだったようだ。
『西行物語』や『源平盛衰記』という書物には「同僚が亡くなって世の無常を悟ったらしい」、「いやいや、高貴な女性に叶わぬ恋をしていた」とさまざまな推測が書かれている。「失恋説」を採用している『源平盛衰記』には西行の歌として、こんな和歌が紹介されている。(この歌自体が、源平盛衰記の作者による創作であるという説もある)。
「思ひきや富士の高嶺に一夜寝て雲の上なる月を見んとは」
高嶺の花だと思っていたあなたと一夜を過ごすことができるなんて、思いもよらないことでした。富士山よりもさらに高い、雲の上に浮かぶ月のように、あなたは私にとって遠い存在です。
西行が出家したのは、口にするのも恐れ多い高貴な女性に恋をしたためである、と源平盛衰記は伝えている。叶わぬ恋に身を焦がす西行に、相手の女性は「あこぎの浦ぞ」と言った。その言葉を聞いた西行は恋をあきらめ、出家を決意したというのだ。
「伊勢の海阿漕が浦に引く網も度重なれば人もこそ知れ」
伊勢新宮の神に魚を神饌として供える地域であるために、禁漁地となっている阿漕が浦では、一度なら偶然に密漁できても、何度もすれば必ず発覚することになるでしょう。一回だけの密会なら発覚しませんが、もう逢わないほうがいいでしょう。
「あこぎの浦」は、神様に捧げる魚を獲るための漁場である。一般の人が漁をすることは禁じられていた。ある漁師が、あこぎの浦でたびたび魚を獲っていたため、海に沈められてしまう。この故事をもとに、人びとは「伊勢の海あこぎが浦に引く網も度重なれば人もこそ知れ」という恋の歌を口ずさむようになった。秘密の恋も、逢瀬がたびかさなれば人に知られてしまうよ、という意味である。
西行が恋をした相手の女性は、鳥羽天皇の中宮「待賢門院璋子(しょうし/たまこ)」とも言われている。璋子は幼いころからとても美しく、鳥羽天皇の祖父にあたる白河法皇にも寵愛されていた。恋愛について現代よりもかなり自由だった平安時代だが、祖父と孫が同じ女性を愛するということはさすがに珍しく、このことが、後の歴史的大事件につながっていく。
一方では、同族の同僚・佐藤憲康と一緒に検非違使に任官されるという日の朝、憲康が突然死んだので、西行は無常観を募らせて出家に踏み切るという説もある。実際の出家の動機が何であったのか、今となっては知るよしもないし、専門家ではない私にとってはどうでもいいことだ。西行の出家の理由がわかったからといって、西行の歌が分かるわけでもなかろう。
渡辺教授は、西行が遁世歌人であることを認めつつも、複雑な歌人だと定義している。私も、西行を知るにつけて、西行という人は一筋縄ではいかないと思うようになった。というのは、出家したにもかかわらず、頻繁に俗世にも出入りするし、出家したからには修行に励んで立派な僧になろうという気持ちは薄い。つまり、越境性が強い特徴として浮かび上がった。
そして、渡辺教授は、西行が70歳前後になってから、自作の歌からできの良い秀歌を選び出して、歌合形式に整えて、伊勢神宮に奉納した『御裳濯河歌合』から西行を詠み込んでいく。
『御裳濯河歌合』は、三十六首計七十二首から成り立っている。最初の十首は左が桜、右が月を題材にしている。十一番から二十三番までが四季、二十四番から二十八番までが恋、二十九番から三十九番が雑という構成である。その一番歌二首ならびに題三十六番歌二首を読み解きながら、進めよう。
一番 左持
岩戸あけし天つみことのそのかみの桜をたれか植ゑはじめけむ 山家客人
天の岩戸を開けて出てきた天照大神の昔に、誰が桜を植え始めたのだろうか。
右
神路山さやかなる誓ひありて天の下をば照すなりけり 野径亭主
神路山では月がさやかに転嫁を照らしている。それは万民を救う天照大神の明らかな近いがあってのことなのだ。
この二つの歌は、「あまつみこと」つまり高天原の神々と桜の始まりが結びつけられていることと、伊勢神宮の域内にある神路山に照る月は神の誓いの証しとして天下を照らしているということを言っているのであるから、神話の世界や始原の世界に思いを馳せていると言えよう。
三十六番 右持
流れ絶えぬ波にや世をば治むらん神風すずし御裳濯の岸
流れの絶えない川の波のように神はこの世を治めているのだろう。神風が涼しく吹く御裳裾河の岸で思う。
伊勢神宮におわす天照大神に世の名がきちんと治まることを祈願する西行の姿勢が良く分かる歌である。しかし、数多くある西行の歌の中でも、西行が最も愛したのは桜である。その桜花に関する歌を見ていこう。
五番 左持
思ひかへす悟りや今日はなからまし花に染めおく色なかりせば
今日悟りを開くこともなかっただろう、花に執着する情けがなかったなら。
花に執着する心があったのでそれを翻すことで悟りに今日至った。しかし、悟ったと自分のことを言うのは自信過剰である。だが、本当の狙いは、「悟り」ではなく、「思ひかえす」つまり、花への「執着」という煩悩が、仏道を求める心に「回心」することこそが大切なのであったのだ。
八番左勝
花に染むこころのいかで残りけむ捨て果てきと思ふ我が身に
花に執着する心がどうして残っていたのだろう。捨てきってしまった思っていた我が身に。
この歌を鑑賞するには、次の歌をまず読む必要がある。
同じころ。尼にならむと思ひてよみ侍りける
捨ては果てむと思ふさへこそ悲しけれ君になれにし我が身と思へば
和泉式部・後拾遺集・哀傷・五七四
我が身と我が心の分裂を通じての葛藤を詠むのは、王朝女房の得意技であった。そして、そのように詠まれた和歌は相手に訴えかける力があるのだ。
そしてまた、次の歌の影響があると、渡辺教授は言う。
世の中を思ひ捨てててし身なれども心よわしと花に見えぬる
能因法師・後拾遺集・春上・一一七
実は、このまたには長い詞書があるけれど、ここでは省略する。
「如何にして歌を作らうかといふ悩みに身も細る想ひをしてゐた平安末期の歌壇に、如何にして己を知らうかといふ殆ど歌にもならぬ悩みを提げて西行は登場したのである。」
これについては西行に関連する事柄で小林秀雄が書いたこととして、前にも触れた。
六番右勝
うき身こそいとひながらもあはれなれ月をながめて年の経にける
不運なこの身がいやになりながらもいとおしい。月を眺めて長年過ごしてきたとは。
心がすでに分裂している。不運な我が身がいやになる。しかし、いとおしくもある。月を眺めて「あはれ」と思っていたが、いつしか月を眺める我が身自身も「あはれ」になる。大将への思いが自分への思いに変貌していく。いや、統合されていくのである。
七番右持
こむ世には心のうちにあらはさむ飽かでやみぬる月の光を
来世には心の中に現しだそう。終に飽くことのなかった月の光を。
「月の光」とは「真如」(仏法の真理)である。悟りとも言える。
十八番右負
こころなき身にもあはれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ
情趣を解さない私にも、この風景は胸に染みる。四季が飛び立つ沢辺の秋の夕暮れ時。
どうして自分のことを謙遜しなければならなかったのかは、人によって解釈がまちまちのようで、評価する立場の人と評価にないという立場の人がいるようだ。まあ、素人の私にはどうでもいいことだが。しかし、風景の媚を感受する「心」の有無については、先例があるので、そのことについては言及しておく必要があるだろう。
こころあらむ 人に見せばや津の国の難波わたりの春のけしきを
後拾遺集・春上・四三・能因法師
心なきわが身なれども津の国の難波の春に堪へずもあるかな
千載集・春下・一○六・藤原李通朝臣
西行が出家した動機には、同僚の死によって感じた「無常」による者という説と、雲の上の女性との恋というせつがあることは前述した。その恋の相手がだれだったのかと言う船側は不要だが、西行が「恋」をどのように歌ったのかは見ておく必要がある。
二十八番右持
知らざりき雲居のよそに見し月の影を袂にやどすべしとは
思いもしなかったよ。無関係だと思っていた月の光を、この袂にやどすことになろうとは。
「よそに見し」の「し」は過去の話を現すので、「雲居のよそに見」たのは過去のことでしかない。しかし、「袂にやどす」は現在の状態である。たから、「雲居のよそに見し月」とは、恋をする前は自分とは無関係だと思っていた女性のことを指すというのが自然な解釈だろう。それは、他にも例がある。
かく恋ひば堪えず死ぬべしよそに見し人こそおのが命なりけり
和泉式部集・九二
下の句は、「関わりがないと思っていた人こそが、私の命・生きる力なのだった」と訳されるのだが、この点について渡辺教授は、こう指摘する。
「『雲居の月』をわざわざ持ち出したのは、相手を賞賛するとともに、自分を卑下する述懐的発想が宿っているのだろう。」
教授は、西行は変貌する心を、我が身を以て演じているとも解説している。変貌の劇を演じることは、信仰にもつながる、というのが渡辺教授の考えだ。
私には、西行はこのように思っていたのではないかと思えるのだったと前述した。もう一度引用しよう。
「和歌をならふとは、自己をならふ也。自己をならふとは、自己をわするゝなり。自己をわするゝとは和歌に証せらるゝなり」
「仏道」を「和歌」に入れ替えれば、まさしく西行の思いに沿っているように思える。しかし、西行は「自己をわするゝ」つまり、「和歌をわするゝ」ということができなかったのだ、と私は思っていた。
最後の最後まで、「和歌」に対する執着心は止まなかった。一般的には執着を捨てることこそが僧侶の最大の目標であるにもかかわらず、である。「和歌」は、西行が「和歌わするゝ」ことができなかったことを証明してしまったのだ。「和歌に証せら」れることがなかったのだ。そして、その事実こそが、私がますます西行を好きになる理由である。