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百人一首に選ばれた人々 その10

 第二十一番歌 素性法師
「今こむといひしばかりの長月の有り明けの月を待ち出でつるかな」

 素性法師は僧正遍昭の子供である。素性法師の俗名は良峯玄利(よしみねのとしはる)である。、しかし、素性法師という人は「延喜の游徒」『本朝文粋』(藤原有国)とまで言われたらしく、抹香臭さがなかったようだ。

 現役の時には左近将監という役職に就いていた。戦前の陸軍大将のような地位にあったということだ。つまり、武将であることを放棄して、出家したのである。

 そうだとすれば、戦で亡くなってしまった部下達を供養するのために出家したのではないかとも考えられる。実際に、彼は部下達の慰霊の旅に出ている。戦に出て行った夫、あるいは息子を思って、大切な人がいつ帰ってくるのかと待っている女性のことを思い浮かべて、素性法師はこの歌を詠んだのだろうと考えられる。
 
 先の大東亜戦争でも、玉井浅一という人が、部下の関行男大尉の実家を訪れ、母サカエさんに向かってこう言った。
「自己弁護になりますが、簡単に死ねない定めになっている人間もいます。私は若い頃、空母の艦首に衝突しました。ですから、散華された部下たちの、その瞬間の張り詰めた恐ろしさは、少しは分かるような気がします。せめてお経をあげて部下たちの冥福を祈らせてください。祈っても罪が軽くなるわけじゃありませんが……」
 その後、彼は日蓮宗の僧侶になり、海岸で平たい小石を集めた。小石に亡き特攻隊員一人一人の名前を書いて、仏壇に供えた。そして、彼らの供養を続けた。

 昭和39年5月、江田島の旧海軍兵学校で戦没者慰霊祭が行われた。日蓮宗の枢遵院日覚(すうそんいんにちがく)という僧侶が着座した。僧侶の前には白木の位牌がずらりと並んでいた。その僧侶は、玉井浅一さんだった。玉井さんが沐浴し、ひとつひとつの戒名を書いたのだ。読経が始まると、慟哭、啜り泣き、嗚咽が漏れてきた。読経の声、かつての戦友、かつての部下達の遺族がひとつの心に溶け合ったのだ。そう思うと、素性法師の和歌は、やはり部下を大切にしてきた日本の戦人の伝統が底辺にはあるのだ。

 素性法師が詠んだ歌をいくつかみていこう。

「よそのみにあはれとぞ見し梅の花あかぬ色香はおりてなりけり」
『古今集』巻一春歌上 三十七
「散ると見てあるべきものを梅の花うたてにほひの袖にとまれる」
『古今集』巻一春歌上 四十七
「見てらみや人にかたらむ桜花手折りても来む見ぬ人のため」
『古今集』巻一春歌上 五十五
「見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」
『古今集』巻一春歌上 五十六
「花散らす風のやどりは誰か知る我にをしへよ生きてうらみむ」
『古今集』巻一春歌上 七十六
「いざけふは春の山辺にまじりなむ暮れなばなげの花のかげかは」
『古今集』巻二春歌下 九十五
「いつまでか野辺に心のあくがれむ花し散らずは千代も経ぬべし」
『古今集』巻二春歌下 九十六
「おもふどち春の山辺に打ちむれてそこともいはぬ旅寝してしが」
『古今集』巻二春歌下 一二六

 一連の歌では、唐風の梅から和風の桜へ、和風の桜から自由奔放な山野自生のさくらと変化していくのが面白い。

 しかし、素性法師という人は道心が薄かった。
「いづくくにか世をばいとはん心こそ山にも迷ふべらなれ」
『古今集』巻十八雑歌下 九四七
 私は世を厭いきらって、いったいどこに逃れたらいいのだろうか。身は世を隠れ住む所があろうとも、私の心はいずこの山や野にも落ち着かず、さ迷い歩くに違いない。

 目﨑徳衛によれば、素性法師は恋の歌が苦手だったそうだ。しかし、定家は素性法師の花の歌は百人一首に入れず、恋の歌を入れた。
「今こむといひしばかりの長月の有り明けの月を待ち出でつるかな」という歌は、壬生忠岑の歌論『和歌体十種』に、「余情体」の模範として取られたことにあるという。「この体、詞一片を標して義万端に籠る」とされた。


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