西行の足跡 その2
西行は1118(元永元)年、名門の武士の家に生まれた。俗名を佐藤義清という。上皇を警護する「北面の武士」という役職について働き、蹴鞠や馬術にも優れていたという。結婚して二人の子どもがいたが、23歳のとき、突然出家してしまう。年をとり、人生の酸いも甘いも噛み分けた老人ならいざ知らず、前途ある若い武士がすべてを捨てて仏門に入ることは、当時の人びとにとっても驚きだったようだ。
『西行物語』や『源平盛衰記』という書物には「同僚が亡くなって世の無常を悟ったらしい」「いやいや、高貴な女性に叶わぬ恋をしていた」とさまざまな推測が書かれている。「失恋説」を採用している『源平盛衰記』には西行の歌として、こんな和歌が紹介されている。(この歌自体が、源平盛衰記の作者による創作であるという説もある)。
「思ひきや富士の高嶺に一夜寝て雲の上なる月を見んとは」
高嶺の花だと思っていたあなたと一夜を過ごすことができるなんて、思いもよらないことでした。富士山よりもさらに高い、雲の上に浮かぶ月のように、あなたは私にとって遠い存在です。
西行が出家したのは、口にするのも恐れ多い高貴な女性に恋をしたためである、と源平盛衰記は伝えている。叶わぬ恋に身を焦がす西行に、相手の女性は「あこぎの浦ぞ」と言った。その言葉を聞いた西行は恋をあきらめ、出家を決意したというのだ。
「伊勢の海阿漕が浦に引く網も度重なれば人もこそ知れ」
伊勢新宮の神に魚を神饌として供える地域であるために、禁漁地となっている阿漕が浦では、一度なら偶然に密漁できても、何度もすれば必ず発覚することになるでしょう。一回だけの密会なら発覚しませんが、もう逢わないほうがいいでしょう。
「あこぎの浦」は、神様に捧げる魚を獲るための漁場である。一般の人が漁をすることは禁じられていた。ある漁師が、あこぎの浦でたびたび魚を獲っていたため、海に沈められてしまう。この故事をもとに、人びとは「伊勢の海あこぎが浦に引く網も度重なれば人もこそ知れ」という恋の歌を口ずさむようになった。秘密の恋も、逢瀬がたびかさなれば人に知られてしまうよ、という意味である。
西行が恋をした相手の女性は、鳥羽天皇の中宮「待賢門院璋子(しょうし/たまこ)」とも言われている。璋子は幼いころからとても美しく、鳥羽天皇の祖父にあたる白河法皇にも寵愛されていた。恋愛について現代よりもかなり自由だった平安時代だが、祖父と孫が同じ女性を愛するということはさすがに珍しく、このことが、後の歴史的大事件につながっていく。
一方では、同族の同僚・佐藤憲康と一緒に検非違使に任官されるという日の朝、憲康が突然死んだので、西行は無常観を募らせて出家に踏み切るという説もある。実際の出家の動機が何であったのか、今となっては知るよしもないし、専門家ではない私にとってはどうでもいいことだ。西行の出家の理由がわかったからといって、西行の歌が分かるわけでもなかろう。
なお、西行の作品の前に四角で囲んだ数字があるが、これは西澤教授の本の通りに割り振った。これらの歌には西行の作品を読み解く鍵が含まれているからだ。
なお、西行の和歌の表記は、『山家集 西行』宇津木言行著(角川ソフィア文庫)および『西行歌家集』久保田淳・吉野朋美校注(岩波文庫)に従った。
『西行 魂の旅路』西澤美仁(ビギナーズ・クラシック日本の古典)では漢字表記になっていても、上の二つの本では仮名表記になっている場合があるので、できる限り統一した。また、西澤教授の本にある言葉と角川ソフィア文庫では言葉そのものが違っている場合もあるので、全て角川文庫や岩波文庫のほうに統一した。
また、この文書は「ワード」で作成したので、ルビを振るとどうしても行間のバランスが悪くなる。そこで、ルビを振る必要があると判断した場合には、ルビを振る代わりに( )で読み方を示した。