西行の足跡 その8

6「なにごとにとまる心のありければ更にしもまた世のいとはしき」 
 山家集中・雑・729
 何かに執着する心が残っているからなのか。出家をしたにもかかわらずまだ捨てきれないでいる感覚が残っていて、この世が厭わしくなるというほどのことだろう。
 
 西行は出家したことを後悔していないが、出家した達成感というものも感じられない。「惜しむとて惜しまれぬべき」という歌と共通するある感覚がある。それは、捨てたものが大きすぎるという感覚なのだろう。でも、繰り返すが決して後悔はしていない。未熟なのだから、頑張らねばならないという気持ちもない。
 
7「鈴鹿山うき世をよそにふり捨てていかになりゆくわが身なるらん」 
 山家集中・雑・728
(執着と思い出のある)都を捨てて鈴鹿山を越える。形振り構わず憂き世は捨てたが、明日の我が身はどうなることだろう。
 
(執着と思い出のある)都というのは私が勝手に西行の心中を忖度して言ってみたに過ぎない。
 和歌そのものにはそんなことは一つも書いてないし、西澤教授の解説にも書いてない。未来には明るい悟りの世界が待っているのか。それとも、奈落の底に落とされるような絶望感に彩られたくらい将来が待っているのか。そのような複雑で解きほぐせない感情が綯い混ざった世界を一首の歌にした。 
 この歌を読むだけで、西行という人の思いが滲み出ているのを感じ取れる。
「世に経(ふ)ればまたも越えけり鈴鹿山昔の今になるにやあらむ」
『拾遺集』斎宮女御(徽子(きし)女王 )
 この世に生きていたので、またもう一度越えることになったよ、鈴鹿山、だから鈴の縁でいうわけではないが、昔が今になるのであろうかと思われることであるよ。
 歌枕「鈴鹿山」は、「鈴」の縁語として「振る」、「鳴る」を「経る」、「成る」に掛けて詠むのが通例だとのこと。
 
 後に42にも出てくる次の歌には「いかにならんとすらん」が出てくる。
 
「ゆくへなく月に心の澄み澄みて果てはいかにならんとすらん」
 月を見ていると私の心は澄みに澄む。このままどこまで澄んでいくのだろう。私は一体どうなってしまうのか。
 
 そして、「いかに成り行く」や「いかにならん」のルーツは和泉式部の次の歌だという。
「世の中はいかに成り行くものとてか心のどかにおとづれもせぬ」 
 和泉式部集
 あなたはどうしてきてくださらないのですか。いったい世の中がどんなに騒々しいと考えて、心の安らぎを私に求めてくださらないのですか。
 
 それにしても、「私にはあなたとの関係だけが世の中なのだ」という和泉式部の世界観には驚かされる。お湯を沸かせば徐々に熱くなるし、お湯が沸いた後そのまま放置すれば冷めてしまう。恋というのはそのようなものであり、「好きだ」という思い込みがあるに過ぎない。
 しかし、実際に一時のことであったとしても、ある人に恋をしたというのは本当にその人のことが好きだったのということはある。ましてや、男にはなさねばならぬ仕事や事情というものがある。それを無視してでも、自分の所に来てくれというのは、あまりにも身勝手だと思うのは、私が男だからなのだろうか。
 親兄弟の愛は安定している。それは血を同じくする「家族」というつながりがあるからだ。もちろん、「家族」の中でも憎しみ合うということはあるのだが。
 だが、所詮他人同士でしかない男女の恋愛は不安定なものだ。だから、ほんの少しの行き違いが悲劇を生むことはよくある。いずれにせよ、男と女は永遠にわかり合えないというのが私の正直な感想である。
 和泉式部は私が好きな女流歌人の一人だが、理解できないものは理解できないとしか言いようがない。
 

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