西行の足跡 その18

6「子日(ねのび)して立てたる松に植ゑそへん千代重ぬべき年のしるしに」山家集上・春・6
 野で引いた子の日の松を門松に植え添えよう。二つの松が重なって、高倉天皇の御代も、いつ
までも続くに違いない証拠に。
 
「子の日」とはその年最初の「子」の日に、野外で小松を引いて長寿を祝う正月行事のこととある。大晦日の翌日に元旦と立春が同時に来ることもあるということは、先に述べたとおりだ。さらに、「子」の日が元旦と重なる場合もある。西行の生涯には4回あったという。特に西行の50代の仁安2年(1167年)と嘉応2年(1170年)に元旦と「子」の日が重なった。そこで、西澤教授は「西行の暦に対する関心がこの頃格別に敏感になっていた可能性はある」と書いている。
 
 西行の同時代までに詠まれた元日の子の日の歌には、次の歌がある。
「今日よりは君と子の日の松をこそ思ふためしに人も引くらめ」 源頼政集
 元日と子の日が一致したこの日を、妃はじめにあなたと寝る待望の日、ということで、あなたへの永遠の愛を誓う証拠として、今日からは人も引用するでしょう。
 
 そのほかにも和歌にとって、暦は重要な関心事だったと言う解説が続くが、私には興味がないので省く。
 
「解け初め初若水の気色にて春立つことの汲まれぬるかな」 版本山家集4a
 元旦に汲んだ初若水の、氷が解け始めた様子から、今日が立春と推測できた。
 
 西澤教授の本から引用する。
 引用ここから
「西行の「山家」は「梅暦」(暦を見ないで自然の様子から季節を知る)の趣向を詠むのにふさわしい場でもある。立春や子の日が元旦に重なるという暦の偶然を吉兆とみる意識を人一倍強く持つには、何か格別な理由があったはずである。ここで思い合わされるのは、仁安3年に高倉上皇崩御に際し、藤原定家が日記『明月記』に記した「文王已没(ぶんおうすでにぼつす)」(中国でも聖王の代表とされる文王に比すべき理想の君主が没してしまった)である。(中略)『山家集』もその『三五代集』に連動して編纂が行われた時期があり、俊成や定家だけでなく、西行においても高倉天皇は平家文化の象徴的存在であり、高倉治世に和歌が隆盛することで世が治まる期待を抱いていたのではないか。『山家集』冒頭部に高倉朝を言祝ぐ意識を読み取りたい所以である」
 引用ここまで
 

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