西行の足跡 その35

33「立て初(そ)むるあみ採る浦の初竿は罪の中にもすぐれたるらん」 
 山家集下 雑・1372
 長老の漁師が最初に立てた一の竿は、阿弥陀の名に通じる糠蝦を採るための竿であるから、殺生戒を冒す罪の中でもひときわだって重い罪を受けることになる。
 
 詞書きにはいろいろ書いてあるけれど、現代の日本人がこの詞書きを読んでも、何が何だか理解できない。西澤教授のような課専門家の解説があって、初めて理解できる。
 教授の解説によれば、児島の漁師の長老が「一の竿」を立てる儀式があった。衆生済度を立願する意味の「立つ」という言葉が、折衝行為を荘厳する儀式に用いられて、豊漁を祝福していることに衝撃を受けている。
 
『栄花物語』の「宇治法華八講」で藤原道長が詠んだ歌がある。
「宇治川の底に沈めるいろづくを網ならねどもすくひつるかな」 
 宇治川の川底に生息する魚が成仏できないでいるのを、今日は網ですくい取ったりしないで、阿弥陀の浄土に救い取ろう。私は阿弥陀仏ではないけれど。
 
「沈む」水中の魚を「網」で「掬う」というのは殺生の文脈である。「沈む」成仏できない魚たちを「阿弥」陀仏が「救う」というのは救済の文脈である。道長の歌では二重文脈になって対応している。
 
「下り立ちて浦田に拾う海女の子は螺より罪をならうなりけり」 
 山家集下 雑・1373
 浦田に下り立って螺貝を拾う漁師の子たちは、知らず知らずのうちに螺から罪を習っているのだ。
 
「つみ」という名前の螺貝を拾って殺生戒を冒す子供の罪。漁師たちは、殺生に殺生を重ねて採った「つみ」を海産物の「積み荷」として売買する商人の罪。瀬戸内の人々は無知故に「罪」を重ねている。西行は心を痛めた。
 
「真鍋より塩飽へ通ふあき人は罪に櫂にて渡るなりけり」 
 山家集下 雑・1374
 真鍋島から塩飽諸島に通う商人たちは、罪深い積み荷を買い付けては航海しているので、人々に罪を犯させる張本人のようなものだ。
 
「同じくはかきをぞ刺して乾しもすべき蛤よりは名もたよりあり」 
 山家集下 雑・1375
 同じ罪を犯すのなら、牡蠣を串に刺して乾したらいい。海の干し柿、なんてね。蛤も栗なら罪がないが、それよりも看経に通じて仏教に通う名前です。
 
 柿と蛤、柿と栗、という言葉遊びをしているが、牡蠣という罪深い生物と仏教の看経(読経、経文の黙読)という言葉に通じている。生きていくために殺生を行わなければならない漁師や猟師であっても、西行にとっては魚介類も漁師たちもみんな罪深いのだ。西行にとっては、彼らは罪深いのだろうが、私は個人的に猟師、海産物売買を職業として従事している人を責める気にはなれない。だから、きっと西行自身が彼らだけではなく、自分もまた罪深いのだと思っていたのではないかなと思う。
 

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