西行の足跡4
3「惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは身を捨ててこそ身をも助けめ」
玉葉集雑5・2454
私が惜しんだところで、私が惜しまれるようなこの世でしょうか。私は出家して身を捨てることで、我が身を助けたいと思うのです。
この歌は、佐藤義清という北面の武士が、出家を決意して鳥羽院に出家の暇乞いをしたときに詠んだ歌であるという。つまり、このときには西行という人物はまだいない。あくまでも、佐藤義清である。血筋といい、才能といい、佐藤義清という人物は、順調に出世していくうらやましい人物だと世間の人々の目には映っていたはずだが、それを「惜しまれぬべき」と言い放っているのは、なんとも屈折した自意識である。
また、『詞花集』雑下にも次のような歌があるという。
「身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ」
詞花集・西行
身を捨てて出家する人は本当に自分のみを捨てているのだろうか。いやむしろ、出家しないで身を捨てていない人のほうが自分の身を捨てているのだ。
西行はなぜ「身を捨つる」ことに拘ったのだろうか。それを考えるには、明遍僧都という人の次の言葉に注目する必要がある。
「世をも捨て、世にも捨てられて、人員ならぬこそ、その姿にて候へ。世にすてられて世を捨てぬは、ただ非人なり。世を捨つとも、世に捨てられずは、遁れたる身にあらず」
理屈を捏ね回しているような気がしないでもないが、「身を捨つる」、「世を捨つる」ことの意味を繰り返して確認することが必要だったという点についてはよく理解できる。
4「大井川舟に乗り得て渡るかな」 西行
舟に乗ることができて、このお大井川を渡るよ。仏法を得て悲願に向かうように。
「流れにさおさす心地して」 西住
流れにさおさす心で、出家の志が後押しされる機運に乗じて。
西住という人は諸説あるが、俗名を季正(政)といい。右(左)兵衛尉であった。また、醍寺理性院流祖賢覚より付法を受け、その法脈に連なる真言宗系の僧であったということができるようだ。また、西住も西行もどちらも徳大寺の家来でもあり、西行とは若い時から友だちだったと思われる。
西行が出家する前に西住と共に、嵐山法輪寺の空仁のもとを訪れたことがある。当時は平安京から法輪寺に行くには、大井川(大堰川・桂川)を舟で渡った。話をして帰るとき、空仁が渡し船の所まで来て、名残を惜しんでくれたが、その時次の前句を詠んだ。
「はやく筏はここに来にけり」
おや、もう筏はこがここに来ましたよ。出家の準備も整ったのではありませんか。
そして、西行は次のように付けた。
「大井川川上に井堰やなかりつる」
大堰川の川上に筏を堰き止める井堰はなかったのですね。出家するのにもう何も問題はなくなったようです。
4の連歌はそれに続くものである。そして、詞書きにはこうある。
「かくさして離れて渡りけるに、ゆゑある声の嗄れたるやうなるにて、大智徳勇健、化度無量衆と読み出したりける、いと尊くあはれなり」
後日、東山の「阿弥陀房」を訪問した。
「柴の庵と聞くはいやしき名なれども世に好もしき住居なりけり」
山家集中・雑・725
庵室は「柴の庵」と言葉で聞くと、なんだか貧相な名前だったが、来てみて実に感じのいい住居であることが分かった。
こうしてみると、西行の出家は突然のものではなく、丁寧に準備をしていたことが分かる。そして、自己表現の手段として、和歌を捨てない僧侶に徹していた事も分かる。