西行の足跡 その48

数寄の条
 
46「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」 
 山家集上・秋・470
 世捨て人である私が感じ取ったこの感動を、和歌の言葉で伝えたい。鴫の群れが飛び立った羽音のとどろく沢辺に、秋の夕暮れが寂しく訪れる。
 
 この有名な歌について、小林秀雄は、『西行』の中でこう述べた。
「この有名な歌は、当時から評判だつたらしく、俊成は『鴫立沢のといへる心、幽玄にすがた及びがたく』といふ判詞を残している」歌のすがたといふものに就いて私案を重ねた俊成の眼には、下二句の姿が鮮やかに映つたのは当然であろうが、同畏怖人間のどういふ発想からかういふ歌が生まれたかに注意すれば、この自ら鼓動してゐる様な歌の心臓の在りかは、上三句にあるのが感じられるのであり、其処に作者の心の疼きが隠れている、いふ風に歌が見えてくるだろう」
 私は、小林秀雄の意見に賛成である。
 なお、藤原俊成は西行の夕暮れを「御裳濯河歌合」で負に判じ、「千載和歌集」に採ることもしなかった。このことは後でも触れる。
 全てを捨てて世捨て人になった我が身だけれど、和歌だけは捨てなかった。しかし、自分は世捨て人ではあるのだという自己認識の溝を抱えたままでここまで来た西行にとって、和歌では表現できないものを和歌だけで表現したいと思った。
 この歌の上句は、能因の次の歌に由来する。
「心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春の気色を」 
 後拾遺集・春上
 和歌の情趣を解する心のある人には見せたいものだ。摂津国の難波の春がどんなに美しいのかを。
 
 この歌では、摂津の難波の春がどのように美しいのかは具体的に述べずに、和歌が分かるなら私の心を読み取ってくれと呼びかけている。
 
「津の国の難波の春は夢なれや葦の枯れ葉に風渡るなり」 
 新古今集・625
 能因が詠んだ「津の国の難波の春」を実際に見てきたが、あれは夢だったのだろうか。角ぐむ葦もすっかり枯れて、吹き渡っていく風だけが聞こえる。
 
 西行は能因が讃えた「津の国の難波の春」は、「角ぐむ葦」(葦の芽吹き)だったと読み解いた。
「心なき身」は「心あらむ人」に対応する表現だし、「和歌の情趣を解することができない私」という意味しかない。また、「あはれは知られけり」は、「和歌の情趣が理解できた」という意味であるので、反復的表現になっている。自分の感覚と世間一般の感覚との微妙なずれや溝を取り上げて、冷静に自分を見ているのだろう。
 
 なお、「鴫立つ沢の秋の夕暮れ」は、良暹(りょうせん)が詠んだ次の歌を踏まえているそうだ。
「寂しさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮れ」 
 後拾遺集・巻4・秋上・333 良暹法師
 あまりに寂しくて旅に出たが、どこに行っても同じだった。秋の夕暮れが寂しいのは、秋の夕暮れそのものの寂しさだったということなのか。
 
 古語の「ながむ」には、「ぼんやりとものを見る」とか「見渡す」という意味のほかに「物思いに耽る」という意味もあるが、現代日本語の「眺める」にはそのような意味はない。
 つまり、西行は「ながむ」という言葉に「物思いに耽る」という意味と「見渡す」という意味を持たせることで、「秋の夕暮れ」そのものの寂しさを発見した。「秋の夕暮れ」が「寂しさ」を象徴する枕詞になったのは、西行のこの歌からなのである。
 ところで、「鴫立つ沢」とは相模国(現神奈川県)の大磯のことだそうだ。
 平泉再訪を果たして帰路に就いた西行の耳に届いたのは、『千載和歌集』にこの歌が入集(にっしゅう)しなかったということだった。そこで、西行は陸奥国に引き返したと言う。
 
 話は変わるが、今度は西行が現在の埼玉県寄居町末野にやって来たときのことだ。末野を流れる逆川にかかる土橋まで来ると、ショイコを背負った子どもがいたそうです。西行は「小僧、どこへ行く」と問いかけた。すると子どもは、「冬ぼきの夏枯草を刈りに行く」と無造作に答えたそうだ。西行は「冬ぼきの夏枯草」とは何のことかわからず、困っていると、子どもはさっさと行ってしまった。また、橋のたもとで、美しい小娘がハタを織っていると、急にその絹がほしくなり、「その絹を売るか」と西行がたずねた。
 すると娘は、「ウルカとは、川の瀬にすむ鮎のはらわた」とまるで禅問答のように答えた。そこで西行は、秩父路では、少年も少女もむずかしい歌をたやすく作る。自分は恥ずかしいといってこの橋から戻ってしまった。
 これが「西行戻橋」の言い伝えだ。
 実は、この子供たちは神だった。子供(神)に言い負けて聖地に入れず境界から引き返す西行の姿は、和歌の世界からそれ以外の世界に飛び入ろうとするが和歌の世界にとどまり続けた姿であった。
 

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