西行の足跡 その5
3「惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは身を捨ててこそ身をも助けめ」
玉葉集雑5・2454
私が惜しんだところで、私が惜しまれるようなこの世でしょうか。私は出家して身を捨てる
ことで、我が身を助けたいと思うのです。
この歌は、佐藤義清という北面の武士が、出家を決意して鳥羽院に出家の暇乞いをしたときに詠んだ歌であるという。つまり、このときには西行という人物はまだいない。あくまでも、佐藤義清である。血筋といい、才能といい、佐藤義清という人物は、順調に出世していくうらやましい人物だと世間の人々の目には映っていたはずだが、それを「惜しまれぬべき」と言い放っているのは、なんとも屈折した自意識である。
また、『詞花集』雑下にも次のような歌があるという。
「身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ」
詞花集・西行
身を捨てて出家する人は本当に自分のみを捨てているのだろうか。いやむしろ、出家しないで身を捨てていない人のほうが自分の身を捨てているのだ。
西行はなぜ「身を捨つる」ことに拘ったのだろうか。それを考えるには、明遍僧都という人の次の言葉に注目する必要がある。
「世をも捨て、世にも捨てられて、人員ならぬこそ、その姿にて候へ。世にすてられて世を捨てぬは、ただ非人なり。世を捨つとも、世に捨てられずは、遁れたる身にあらず」
理屈を捏ね回しているような気がしないでもないが、「身を捨つる」、「世を捨つる」ことの意味を繰り返して確認することが必要だったという点についてはよく理解できる。