西行の足跡 その45
43「嘆けとて月やはものを思はするかこちがほなる我が涙かな」
山家集上・恋・628
嘆けと言って月が私に物思いをさせるのか。むいや、決してそうではないのに、月の性にしたそうに私の涙は溢れ出る。
「かこちがほ」は、「かこつ」からきた言葉で「かこつける」、つまり他人(ここでは月)のせいにするという意味である。
なお、西澤教授によれば、「かこちがほ」というのは西行独自の表現だそうだ。西行の歌には「~かほ」とか「~がほ」という表現が十八首もあるという。
そして、その淵源はと言うと、伊勢が詠んだ下の歌である。
「あひにあひて物思ふ心の我が袖に宿る月さへ濡るるがほなる」
古今集・恋5
何度もあなたに繰り返し逢った。あなたが恋しくて物思いに苦しむ今日この頃の私の袖は涙に濡れて、そこに映った月までも私と同じように泣き濡れた顔だ。
西行の「月」の歌にはいろいろある。
「知らざりき雲居のよそに見し月の影を袂に宿すべしとは」
山家集上・恋・617
知らなかった。遠い空に見た月が忘れられず、涙で濡れた私の袖に宿すことになろうとは。遠くからあなたを見ただけのことが、こんなに忘れられなくなるなんて、思いがけないことだった。
「弓張りの月の外れて見し影のやさしかりしはいつか忘れん」
山家集上・恋・620
半月のかすかな光であなたを見た。その優雅な美しさはいつまでも忘れないだろう。
「雲居のよそに」(遠くから)とか「月に外れて」(かすかに)その人を見ただけというのは、「初恋」(始めたばかりの恋)の表現である。「外れて」というのは弓の縁語だという。「やさしかりし」と「いつか」には弓の縁語「矢」と「射」が掛かっている。
次の歌もこのような縁語を駆使した歌である。
「思い知る人有明の世なりせば尽きせず身をば恨みざらまし」
山家集上・恋・652
有明の月もむなしく見た私の切なる思いを、あなたが少しでも分かってくださるのなら、この世ではもうこの身のことなどどうでも構わないと自分を恨んだりしなかったでしょうに。
「人有明の世」では「人あり」に「有明」を掛けているし、「世」は「夜」を掛けている。
このような趣向の繰り返しは院政期和歌の特徴だと西澤教授は言う。
「ともすれば月見る空にあくがるる心の果てをしるよしもがな」
山家集上・恋・647
ややもすると、月が澄む空に浮かれ出る我が心であるが、この心がついにあなたに辿り着きたいと願っていることを知ってもらう手立てがあればと思う。
恋の月は、「澄み澄みて」とは突き抜けず、我が身や我が心、我が涙に返ってくるという屈折が見られる。
西行という人は、境界を乗り越えたり、また境界の内側に戻ってきたりと、なかなか落ち着かない境地にいたような気がしてならない。
四国の条でも触れたが、崇徳院に呼びかけるように、「長らへて終に住むべき都かはこの世はよしやとてもかくても」 山家集・雑1232と詠んだ。この世の者である西行が崇徳院という死者に対する呼びかけを見ても、境目の世界を自由に行き来する発想は西行独特のものであるのだろう。