百人一首についての思い その81
第八十番歌
「ながからむ心も知らず黒髪の乱れてけさはものをこそ思へ」
待賢門院(たいけんもんいん)堀河
あなたの心が末永く割らないかどうかも分かりません。お別れした朝の黒髪が乱れているように、私の心も乱れて思い悩んでいます。
After you left this morning
my raven locks were full of tangles,
and now ― not knowing
if you will always be true ―
my heart is filled with tangles, too.
この歌の詞書には、「百首歌たてまつりける時、恋のこころをよめる」とある。堀河の和歌の実力はたいしたもので、勅撰入集は66首にものぼる。
不幸なことに、崇徳天皇は強引に退位させられ、近衛天皇が即位した。堀河は神祇拍の源顕仲(あきなか)の娘であり、崇徳院の母親である待賢門院藤原璋子(しょうし)に仕えていた。
そして、近衛天皇即位・得子の皇后冊立と相前後して得子を標的にしたと考えられる呪詛事件(日吉社呪詛事件・広田社巫呪詛事件)が相次いで発覚し、璋子が裏で糸を引いているという風説が流されるようになる。
また、このころから崇徳院は白河院の胤だとする風説が囁かれるようになる(これは『古事談』のみに見られる記述であり、真偽は不明)。こうして権勢を失った璋子は、翌康治元年(1142年)、自ら建立した法金剛院において落飾した。
待賢門院に仕える堀河には崇徳院との関わりでなんとも忌まわしい噂があった。それは、「堀河は神祇拍の娘だから、神通力があるだろう。(崇徳院の母である)待賢門院は、堀河を使って、近衛天皇を呪詛させているに違いない」という噂だ。そのような、根も葉もない噂に巻き込まれてしまったので、待賢門院は出家を決意した。堀河も同様に出家した。二人とも長い黒髪を剃ったのだ。崇徳院の配流を巡って罪なき人が憂き目を見たり、罪深い人が良い思いをしたりした。
罪なき人が深い悲哀を味わうことになったり、非常に罪深い人が大変良い思いをしたりすることがある。それは世の中が不条理と矛盾に満ちているからであり、だれもそのことを訂正することができない。そのような場面に出くわすと、ひとは、つい「神も仏もないものか」と罵りたくなるが、それは全く意味がない。世の中は元々不条理と矛盾に満ちているからだ。だから、神仏といえどもこれを是正することはできない。また、なぜそうなのかと問いかけても、正解を教えてくれ人はいない。
イエス・キリストは、処刑される際に「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と叫んだ。これは、ヘブライ語で「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」という意味である。これが矛盾と不条理の明確な発露であることは誰も疑えない。神の子であり、神そのものであるイエス・キリストが処刑されるなど、あってはならないことであるにもかかわらず、処刑されたのである。それは、キリスト教を信仰するか否かには関係がない。
現在でも核兵器を放棄し、何も特別な軍事行動を起こしたわけでもない、ウクライナという小国がロシアとう大国に侵攻されている。これぞ、矛盾と不条理である。いくら人々が正義だとか、大義だとか叫んでも力による支配を信奉する民族や国は後を絶たない。罪なき人々が悲惨な目に遭っているのに、国連は何もできない。
ただ、この歌に関することを考えていて救われるのは、定家は優しい人だったので、そしてまた何の罪もない人が途轍もない不幸に巻き込まれてしまったことを知っていたので、この歌をここに配置した。そのように考える事ができるのだ。いかなる矛盾も不条理もこの世から消えることはないが、人の優しさによって癒やされることは可能なのである。そのように信じて生きていくのが人なのだと思う。