西行の足跡 その22
20「夜を残す寝覚めに聞くぞあはれなる夢野の鹿もかくや鳴きけん」
山家集上・秋・437
年を取ると鹿の鳴く声に夜更けでも目が覚めてしまう。鹿の声は哀切きわまりないもので、伝説の夢野の鹿もあんな風に切なかったのかと哀しくなる。
「夢野の鹿」というのは、「摂津風土記逸文」および『日本書紀』仁徳天皇三十八年に有名な地名起源説話に基づくものだそうだ。私は研究家ではないので、詳細は省く。
なお、西澤教授によれば、西行の「夜を残す」は、『和漢朗詠集』に採用された白楽天の次の詩句に由来する。
「老ノ眠リ早ク覚メテ常ニ夜ヲ残ス、病ノ力先ズ衰ヘテ年ヲ待タズ」
和漢朗詠集・老人・白楽天
西行のこの歌は、夢野の鹿が性的衝動を抑えられずに死地に走った詩歌の哀切な鳴き声を、性的衝動の衰えた老人が寝床で聞くという、設定になっている。
そして、鹿の鳴き声は人恋しさをかき立てるものとして詠み継がれた。
「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋はかなしき」 古今・秋上
人里離れた奥深い山に散り敷いた紅葉を踏みながら、さらに奥に分け入ってゆく鹿の鳴き声が聞こえてきたりすると、秋の悲しさを痛感する。
「世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」
千載集・雑中・俊成
世の中よ、お前からは遁れる道などないのだなあ。やっと決心して奥山に分け入りはしたが、そこにも鹿の鳴く音は聞こえてきて人恋しくなってしまう。
「なにとなく住ままほしくぞ思ほゆる鹿あはれなる秋の山里」
山家集上・秋・435
このままずっと住み続けたいという気持ちが、なんだか無性に湧いてくる。私の山家も秋になると、鹿が鳴き続けるので。
西澤教授の文を引用しよう。
「鹿の音を聞くのが楽しいというのでも、辛くて聞きたくないというのでもない。鹿の心を歌に詠みたいと思うのは、鹿の悲しみが私の悲しみであるからで、ここに住み続けることによって私の悲しみが鹿の悲しみによっていやされるからである」
「さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべん冬の山里」
山家集上・冬・513
私の山家も冬になるとあまりにも寂しいから、こんな寂しさに我慢できている人がもうひとりいたらいいな。庵を並べて住んでみたい。
「とふ人も思ひ絶えたる山里のさびしさなくは住み憂からまし」
山家集中・雑・937
私の山家は、訪れる人さえもいないと断念したほどの寂しさです。むしろ、この寂しさがなくては住みづらいほどです。
西行の老残のイメージはこんな風である。
「年くれぬ春来べしとは思ひ寝に正しく見えてかなふ初夢」
山家集上・春・1
15を参照のこと。
「山深み杖にすがりて入る人の心の底の恥づしきかな」
山家集下・雑・1238
山が深いので杖にすがって入山する西行老人の歌をここまで集めてみましたが、歌の心の奥深さは私も気後れするほどで、大変立派なものでした。
『山家集』の編集者が、西行とは別にいるみたいな擬装するまでして、老残の身を韜晦したのだろうか。
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