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『和歌史』なぜ千年を越えて続いたか 渡部泰明 角川選書出版 その8

 和泉式部
 紫式部日記で、紫式部は和泉式部をこのように書いている。
「歌は、いとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまるよみ添へ侍り」
 つまり、うたそのものは大変興味深いが、歌の理論、知識、価値判断はさほどのことはない。ただ、口に任せて詠んだ歌などにも、注目すべき点がある、と言うのだ。
 
 次の歌には長い詞書があるのだが、それは省略してその場面の解説のみしておく。
 ある男性が、式部の扇を持っていた。それを道長が見とがめて、誰の扇かと尋ねた。男は、和泉式部のだと答えた。道長はその扇に「浮かれ女の扇」と書いた。その隣で式部が歌を詠んだ。
 越えもせむ越さずもあらん逢坂の関守ならぬ人なとがめそ 
 和泉式部集・二二五
 
 同語の重複は和歌では厭うのが通常だが、和泉式部は厭わない。同語の重複で最も有名な歌は次の歌だ。
 暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月 
 和泉式部集・一五○・八三四
 
 暗きより暗き道に入るというのは、『法華経』の経文であるが、その言葉が歌になると発見してのける彼女の言語感覚の鋭さはまねができない。姓の闇から死後の闇、出でぬ月課せ空の月へと、境界を越える表象が沢山詰まっている。
 
 語らふ女友だちの、世にあらん限りは忘れじと言ひしが、音もせぬに
 消えはつる命ともがな世の中にあらば問はましく人のありやと 
 和泉式部集・一七八
 私の命など消えてしまえばいい。そうすれば、この世に生きていたらもしかして尋ねてくれる様な人がいたろうかと、考えることができるから。
 
 死後の自分の心を想像するという難解で複雑な歌である。なお、終助詞「もが」「もがな」「もがも」「がな」は『願望』を表し、いずれも名詞(体言)に接続する。接続に関しては他に、「もが」「もがな」は形容詞と助動詞の連用形に接続し、「もがも」は形容詞の連用形に接続し、「がな」は格助詞の「を」に接続する場合がある。
 
 今宵今宵と頼めて人の来ぬに、つとめて
 今宵さへあらばかくこそ思ほえめ今日暮れぬ間の命ともがな 
 和泉式部集・二○七
 今晩も生きながらえていたら、またこんな辛い思いをするのだろう。今日暮れぬうちに死んでしまいたいのに。
 
 今晩行くと言いながらも、全然姿を見せない男に対して、夕暮れを待ち続ける。こんなにも辛い思いをするくらいなら、死んだ方がましだと、男に痛烈に言い放つ。
 
 物に詣でて籠もりたる局の傍らなる人の、語らむなどいふに、明日は出でなむととて、かくいふ。
 尋ねずは松にも堪えじおなじくは今日暮れぬ間の命ともがな 
 和泉式部集・七五二
 私を訪ねてくれなければ、待つことに耐えられなくなるでしょう。それくらいなら、今日くれないうちに死んでしまいたい。
 
 亡くならむ世までも思はんなどいふ人の、わづらふころ、音せぬに
 しのばれん物とも見えぬわが身かなある程をだに誰か問ひける 
 和泉式部集・二一六
 もし私が死んでも偲んでもらえるとは思えません。生きている間でさえ誰も訪ねてくれないのですから。
 
 死後までも思い続けようと誓った人が、私が病気になっても梨のつぶてだったので詠んだ、とある。人と人が出会い、わかり合って心許し合うのは、生死の懸隔を飛び越えるの様なものだと、そういう言い方を好むのが和泉式部なのだ。
 
 物にまゐりたるに、尋ねんかたもなきことと言ひたる人に
 生きてまた帰り来にたり郭公死出の山路のことも語らん 
 和泉式部集・四二三
 生きてまたこの世に帰ってきた。時鳥よ、お前と同じだ、死後の世界のことでも語り合おう。
 
 時鳥は、「死出の田長」と呼ばれた。これは、「賤(しづ)の田長」の変化したもので、田植えの時期を知らせる鳥の意であったが、音が変化して「しで」となったので「死出」と当てられ、死出の山を越えて来る鳥の意となった。
「死」の疑似体験である山籠もりから帰ってきたことから、死後の話でも語り合えるだろうと、時鳥に重ねられた。「郭公」とは話し相手であり、自分でもある。
 
 和泉式部は、死者を歌うとき、生と死の懸崖を易々と越えていく。渡辺教授は、ここで「帥宮挽歌群」から、いくつかの歌を拾い上げた。
 
 ①捨て果てむと思ふさへこそむ悲しけれ君になれににし我が身と思へば  
 和泉式部続集・五一
 この身をすっかり捨ててしまおうと思う、そのことまで悲しい。あなたに慣れ親しんだ我が身たど思うと。
 
 ②思ひきやありて忘れぬおのが身を君が形見になさむ物とは 
 和泉式部続集・五二
 思いもしなかった。生き残ってあなたを忘れずにいる我が身を、あなたの形見にしようとは。
 
 ①と②では、我が身は死者の形見であるから、死者は生きている者の記憶の中で生きるのだ。生々しい記憶である。
 
 ③死ぬばかり行きて尋ねむほのかにもそこにありてふことを聞かばや 
 和泉式部続集・五七
 死ぬほど行ってって訪ねたい。かすかにでもあなたがどこに居るのかを聞きたい。
 
 ④なぐさめにみづから行きて語らはん憂き世の外に知る人もがな 
 和泉式部続集・六四
 心慰めに自ら行ってあの人と語り合おうと思う。憂き世の外の世界に精通している人はいないのか。
 
 ③と④では、冥界を訪ねようと言うのだ。
 
 ⑤身を分けて涙の川の流るればこなたかなたの岸とこそなれ 
 和泉式部続集・八○
 我が身を二つに引き裂いて涙の川が流れるので、二人は此岸と彼岸に分かれるのだ。
 
「身を分けて」涙川が流れるというのは、我が身の奥まで悲しみが至るということだ。涙の川が我が身を分断したから、あの人と私は彼岸と此岸に分かれた。そのような理屈だろう。そして、形の上では分断されても、二人の結びつきはますます強くなり、涙の川によって、彼岸と此岸を越境できるのだ。
 
 ⑥鳴けや鳴けわがもろ声に呼子鳥呼ばば答えて帰り来ばかり 
 和泉式部続集・一○三
 鳴き尽くせ、私と一緒に。呼子鳥よ、呼んだらあの人がそれに応えて帰ってくるくらいに。
 
 ⑦わが恋ふる人は来たりといかがせんおぼつかなしや明けぐれの空 
 和泉式部続集・一五七
 恋い慕う人が戻ってきたらどうしよう。はっきり見えない、明け方のほの暗いそらのもと。
 
 ⑥も⑦も冥界から思い人が帰ってくるのである。特に⑦では、夜と朝の境界のほの明るい空間に、ほのかに死者が立ち現れるようだ。
 
 さて、『和泉式部集』の冒頭に、「和泉式部百首」と呼ばれる歌群がある。それらの中から渡辺教授は和泉式部の際立つ特性を見いだそうとする。
 
 いたづらに身をぞ捨てつる人を思ふ心や深き谷となるらん 
 和泉式部百首・八○
 空しく我が身をすててしまうことだ。人を恋する重いが深い谷となるのだろうか。
 
 心が身を捨てるのである。そして、身を捨てたはずの心は深い谷になるのである。つまり、我が身が投げ捨てられたところが、心のいる場所になるのだ。なんとも眩暈がする言い方である。投げ出す主体も投げ出される主体も、我が心なのである。心そのものも分裂していたのだろうけれど、深い谷間になるとことで、なんとかつながっているのである。そこには際立つ越境性がある。
 
 つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天降り来むものならくに 
 和泉式部百首・八一
 つくづく空に見入ってしまうよ。恋しいあの人が天降ってくるわけもないのに。
 
 神ではない人間が「天降り来」るとはなんとも大胆な表現である。そして、直ちに「ならなくに」という表現で否定する。天上を地上に引きつけようとするのだ。
 
 見えもせむ見もせむ人を朝ごとに起きては向かふ鏡ともがな 
 和泉式部百首・八二
 あの人に姿を見せようもし、あの人を見もしよう。ああ、あの人が、毎朝向かう鏡であったらなあ。
 
「見えもせむ」とは自分の姿を相手に見せることである。「見もせむ」とは、自分が相手の姿をみることである。鏡に映るのは相手の姿であり、自分の姿でもある、という越境性がここでも遺憾なく発揮されている。
 
 次の歌はどうだろうか。
 
 背子が来て伏ししかたはら寒き夜は我が手枕を我ぞして寝る 
 和泉式部百首・七七
 彼がやってきて共寝したかつての夜、今はその傍らが冷え冷えするので、自分で自分に手枕をするのだ。
 
 女が歌を詠んでいるのだが、「かたはら」という言葉遣いは和歌では珍しく、漢詩や散文で用いられる。また、『源氏物語』幻巻では、光源氏が「御かたはらのさびしきも、いふかたなくかなし」と行っており、男性的な使い方だと、渡辺教授は言う。そこから、和泉式部がこの歌を詠んだときは、男性の身になって歌を詠んだと推測している。そして、このこともまた越境性の発露が見られる。
 
 黒髪の乱れも知らずうち伏せばまづかりきやりし人ぞ恋しき 
 和泉式部百首・八六
 黒髪が乱れるのもかまわず倒れ伏すと、まず髪を掻き上げてくれたあの人が恋しい。
 
「乱れも知らず」と言うのであれば、自分の姿は分からないはずだ。だから、ここでも和泉式部は男性の視点を獲得しているのだ。自己も他者も越境している。心も姿も越境している。
 
 かく恋ひば堪へず死ぬべしよそに見し人こそおのが命なりけれ 
 和泉式部百首・九二
 こんなに恋い慕ったら、堪えきれず死んだっておかしくない。以前は縁のない人だったあの人が、今では命綱になったのだ。
 
 生と死の間を越境し、無縁だった人が命綱になった。ここにもまた越境性が発露した。現実と想念の中にある向こうの世界とを、我が身を抛ってつなぎとめようとする和泉式部の歌は、多くの人の心を惹きつけた。
 

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