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百人一首に選ばれた人々 その20

 第四十一番歌 壬生忠見 『拾遺集』恋一・六二一
「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」

 第四十番歌の平兼盛と第四十一番歌の壬生忠見の二人が歌を詠んだときに年齢がいくつだったのかは私には分からない。だが、私の勝手な想像ではもうすでに若くない男だったのではないかと思う。しかし、平兼盛の歌には純朴さや純粋さがあったのに対して、壬生忠見のほうはいささか技巧に走りすぎてしまった。だからこそ、平兼盛に軍配が上がった。少なくとも小名木さんはそのように解釈している。私には、和歌の技巧については素人であり、そこまでは分からない。

 だが、現実は残酷である。勝つか負けるかは判者がどのように優劣を付けるのかにかかっている。壬生忠見は身分が低かったので、この歌合で勝てば立身出世も可能だったが、惜しくも敗れてしまった。それにしても、和歌の才能一つで立身出世も叶うとは、なんとも凄い仕組みがあるものだ。まあ、支那にも詩歌の才で出世したり、公邸の近くに仕えたりした人は多いことも事実だ。

 話はがらりと変わるが、当時の絵画を見ると女性は腰よりも長い髪を後ろで縛った形をしているらしい。髪が長ければ手入れも大変であろう。つまり、長い時間を掛けて髪の手入れができるほどに豊かで平和な時代だっのだろう。男性は女性に対して純情であり、女性は大切にされていたという。

 一説によれば、どちらも名歌なので判者が困っていたところ、帝が「しのぶれど」の歌を口ずさんだことから、平兼盛の勝ちとなったというエピソ―ドがある。負けた忠見は落胆のあまり食欲がなくなり、ついには病で亡くなってしまったという話もあるが、真偽のほどは分からない。
 
 ところで、話は変わるが、私がとても好きな女流歌人に宮内卿という人がいる。後鳥羽院の元で活躍した人だ。
『薄く濃き野辺の緑の若草にあとまで見ゆる雪のむら消え』という非常に優れた歌を詠んだので、「若草の宮内卿」とよばれた。だが、和歌にのめり込んでしまい、20歳くらいで亡くなってしまう。だから、壬生忠見が歌合に負けたことで、食欲がなくなりついには死にに至ったというのも分からないわけではない。

 なお、私は宮内卿の歌を元歌にして、次のような狂歌を詠んだ。
「薄く濃き鏡の己が髪見れば後頭(あと)まで見ゆる髪のむら消え」

 第四十二番歌 清原元輔 『後拾遺集』恋四・七七〇
「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」

 清原元輔は清少納言の父親である。第三十六番歌の清原深養父(ふかやぶ)は、元輔の祖父である。『後拾遺集』には「心変わりて侍りける女に人に代わりて」という詞書きがあるそうだ。
 元輔は友人の藤原惟則(のぶのり)に代わって詠んだ。藤原惟則は、なんとあの紫式部の弟である。
 どこまでも純であること。どこまでも男であること。その二つがこの歌の裏側にある価値観として存在している。

 この歌には元歌がある。
「君をおきてあたし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」 
 古今集・1093 詠み人知らず
 あなたを忘れて他の人を愛することはありません。そんなことがあれば、あの末の松山を波が超えていってしまうでしょう。

「男の純情」という一言に尽きる良い歌である。そして、男はどこまでも女性に優しくあらねばならない。ところで、純情な男と言えば、私は渥美清が演じた「フーテンの寅」を思い出す。寅さんは本当に純情だった。あのような年齢で純情という設定はおかしいが、そこは映画であるので何も言わないことにする。寅さんは、ひたすら純情であり、人を騙したり、危害を加えたりするような悪い心を少しも持っていなかった。

 ただ、愚かだった。教育を真面に受けておらず、そのために頭が悪すぎて、常識に欠け、他人の思いが全く読めなかった。そのために、次々に諍いを起こした。ただ、諍いを起こしても、人をあやめたり、危機に陥れたりするような悪辣なことはしなかった。勉強が嫌いだったため、一般人が持ち合わせる常識だとか、通例だとかを無視した。その結果、いろいろな諍いが生じたのだ。

 つまり、純情とか純粋というのは、とても大切なことだが、常識、良識、学問に裏付けされた思考を書いた場合には、また時としては他人との諍いにつながりかねない側面もあるということであり、そのような事態を防ぐには、常識や学問を通じて、世間や他人との付き合い方にも通じていなければならない。ただ、純情であれば良い、純粋であれば良い、というものではない。

 さて、元輔は貴族なので当然学問を修めた。学がある上に、純情だったとすれば、魅力的な男だったのだろう。再度言うが、人は純情・純粋でありさえすればいいというものではない。


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