百人一首に選ばれた人々 その30
第四十五番歌 謙徳公
「あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな」
この人の名前は藤原伊尹(これまさ)であるが、死後正一位と謙徳公の諡を贈られた。この歌の意味は、上に書いたとおりであるが、これでは何が言いたいのか全然理解できない。この人の家集の『一条摂政御集』によれば、若い頃に自分につれなかった女に贈った歌だと分かる。
「あなたはまさか、私とつきあわないような哀れな人、お気の毒な人ではありますまいな。もしそうなら、あなたの人生はむなしく死んでいくだけのつまらない人生になってしまいますよ」という解釈になるそうだ。なんだか強引に口説いているとしか思えないのだが。
なんとも自信満々の嫌らしい、鼻持ちならない言いぐさだ。しかし、謙徳公という諡を贈られたくらいだから、この人は公私のけじめが付けられる謙虚な人で人徳も高かったのだろう。
この歌は、「君を幸せにする自信があるんだよ」と口説いていることになる。それは、いざというときには本気を出して物事に当たる男だということの証明になる。
そうか、この人は加山雄三と同じだったのだ。
「でもね、僕は君を幸せにする自信はあるんだ」(恋は紅いバラの台詞の一部)
凄い自信である。この男は本気になれば何事もきちんとやり抜く男だったのかも知れない。私みたいにぐうたらで自信も信念もない男は黙っているしかないが、古希を迎えてすっかり枯れた今の私にはどうでも良いことだ。
「命短き族」にうまれた権中納言敦忠の死後、生前の風流を忍ぶために枯れ野山荘に集まった人々がいた。
中納言敦忠まかりかくれて後、比叡の西阪本の山庄に人々まかりて花見はべるに
「いにしへは散るをや人の惜しみけむ花こそ今は昔恋ふらし」 一条摂政
一条摂政とは謙徳公のことである。謙徳公は第四十五番歌を詠んだ人でもある。
第四十五番歌 謙徳公
「あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな」
『拾遺集』恋五・九五〇
没落していく一方の時平の流れを汲む敦忠と、忠平の流れを汲んでいて権力の座に就いた謙徳公では対照的である。しかし、風流を愛する心には共通するものがあったのだろう。謙徳公は諡名である。生前の名前を藤原伊尹(ふじわらのこれただ)といい、右大臣師輔(もろすけ)の長男である。
この人は『一条摂政御集』なる家集を残しているが、この家集は百九十四首から成っている。自分をしがない下級官僚の「倉橋豊蔭」という架空の人物に仕立てて、その色好みの世界を描いた。四十一首は女達に贈られた歌であり、その相手は「大炊御門(おおいのみかど)のわたりなりける人」、「内裏(うち)わたりなりける人」、「中御門(なかみかど)わたりなりける人」など沢山の女達が登場する。
しかし、それだけ多くの女と関わっていたのであれば、正妻との間にトラブルがないはずはない。正妻は恵子(けいし)女王である。
「別れてはきのふけふこそへだてつれ千代しもへたるこゝちのみする」
御かへり
「きのふとも今日とも知らず今はとて別れしほどの心まどひに」
ゐとの(恵子女王)
「身をすてて心のひとりたづぬればおもはぬ山もおもひやるかな」
大臣、かへし
「たづねつゝかよふ心し深からば知らぬ山路もあらじとおもふ」
ゐとの
「なよたけの」よかはをかけていふからに我がゆく末の名をこそをしけれ」
万葉集にしろ、古今集にしろ、藤原一族の影は薄く、どちらかと言えば政治的人間集団という一面が強いのだが、九五一(天暦五)年、村上天皇の命により昭陽舎(梨壺(なしつぼ))に撰和歌所が設けられた。別当に藤原伊尹、寄人(よりうど)に大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)、清原元輔(きよはらのもとすけ)、源順(したごう)、紀時文(きのときぶみ)、坂上望城(さかのうえのもちき)のいわゆる「梨壺の五人」が任ぜられて、『万葉集』の読解と勅撰和歌集の撰集とが行われた。かくして『後撰集』が成立した。その結果、藤原氏主流にも和歌を詠む人が増えた。
だが、藤原伊尹の政権は非常に短命だった。天禄元年(九七〇年)正月、右大臣就任。藤原実頼(父師輔の実兄、伯父)が薨去すると、伊尹が後を継いで藤氏長者となり摂政に任じられた。じ翌天禄二年(九七一)には太政大臣に任じられ、正二位に進む。ここに伊尹は名実共に朝廷の第一人者となったが、それから程ない天禄三年(972年)夏には病に倒れた。秋には重篤な状態となった。死期を悟った伊尹は上表して摂政を辞し、11月1日には薨去。享年49。最終官位は太政大臣正二位。正一位を贈られ、謙徳公と諡された。
第五十番歌 藤原義孝
「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」
『後拾遺集』(696)の詞書きには、「女のもとより帰りてつかはしける」とある。だから、好きな女との逢瀬の後で詠んだ歌だと分かる。
この人は、第四十五番歌の謙徳公の三男で、非常な美男子だったという。だが、この男の運命は過酷なものだった。天然痘に冒され醜い姿になってついには死に至る。なんと、わすが21歳にして亡くなった。
才能豊かな詩人、歌人の夭折は、人々に歌人の夭折を悲しむ気持ちや残された作品に対する愛着を生む。それはあまたの例がある。現代詩関係では中原中也、立原道造、金子みすずなど枚挙にいとまがない。若くて才能がある人が夭逝したら、その才能が大きく花開くことを期待していた人々の希望はそこで終わってしまう。だから、残念だ、無念だ、花開く姿が見たかったと惜しむのである。
夭逝そのものは悲しいことだ。けれども、夭逝した人の才能を惜しんだり、悲しんだりしてくれる関係者がいるのは、まだましだろう。これといった才能もないままで、特にその死を惜しんだり悲しんだりする人がいない若者だって、それなりに多数いるのも事実である。
とにもかくにも、千年以上も前の人と同じことを、私たちは連綿と繰り返し、愛おしみ、嘆き、悔しがっている。和歌を通じて、そのことを知ってくれよと、定家がこの歌を配置したのであれば、定家の奥の深さは限りがない。
藤原義孝は伊尹の息子(三男あるいは四男とも)で、父・伊尹の執政下で、侍従・左兵衛佐を歴任する一方、春宮亮として甥にあたる春宮・師貞親王に仕える。天禄元年(970年)兄の挙賢が左近衛少将に任ぜられると、翌天禄二年(九七一)義孝が右近衛少将に任官。兄弟で続けて近衛少将に任ぜられたことから、挙賢は先少将、義孝は後少将と呼ばれた。天禄三年(九七二)正月には正五位下に叙せられる。
仏教への信仰心が篤く信仰心を示す逸話が伝わっている。一方で容姿に優れ、月明かりの夜に歩く姿、殿上人方の行楽に華美を抑えた出で立ちで参加した姿、一条左大臣邸の梅の木に雪が積もっていたのを手折って雪が直衣にこぼれかかった姿などが、『大鏡』で絶賛されている。
幼少時より道心が深く、同年11月に父・伊尹が没した際には出家を考えたが、同年に生まれたばかりの子息(のちの藤原行成)を見捨てることができず、思いとどまったという。なお、藤原行成は、小野道風・藤原佐理と共に、三蹟の一人に数えられる。行成は道風に私淑し、その遺墨にも道風の影響がみられる。その追慕の情はかなり強かったらしく、『権記』に「夢の中で道風に会い、書法を授けられた」と感激して記している。天延二年(久七四)当時流行した疱瘡にかかり、兄・挙賢と同日に21歳の若さで没した。同じ日の朝に挙賢が、夕方に義孝が死亡したとされる。
『義孝集』には無常を表すような歌が多いようだ。
「ゆく方も定め泣き世に水葉やみ小舟をさほのさすやいづこぞ」
「いのちだにはかなはかなも世にあらばとおもふ君にはやはあらぬ」
「いつまでのいのちも知らぬ世の中につらきなげきのただならぬかな」
かへし
「みをつみて長からぬ世を知る人はひとへに恨みざらなん」
慶滋保胤(よししげのやすたね)という人がいた。この人は賀茂忠行の息子である。賀茂忠行は安倍晴明の師である。したがって、本来ならば陰陽師として生きるはずだったのに、紀伝道(きでんどう)に没頭した。紀伝道とは、大学寮において、歴史(主に中国史)を教えた学科。後に漢文学の学科である文章道(もんじょうどう)と統合して歴史・漢文学の両方を教える学科となった。
慶滋保胤には『日本往生極楽記』という著書があり、その中で義孝は四十五人の往生人の一人として挙げられている。
義孝の息子行成もまた道心が深い人だった。花山天皇の時代に権中納言を務めていた叔父・義懐(よしちか)は、花山天皇の退位に伴い、遁世した。比叡山の横河に隠棲していた叔父・義懐をしばしば訪ねた。義懐の息子・成房、つまり行成の従兄弟もまた道心が深かった。
成房が出家しようとした日のことが行成の著書『権紀』(ごんき)に書かれている。
長保元年(九九九)十二月十九日壬戌。早朝苔雄丸(こけおまる。従者の名前)を差し、書状を少将(成房)の許に送る。その詞に云はく、
「世の中をいかにせましと思ひつつ起き臥すほどに明け暮らすかな」ム(私の意)
則ち世間無常の比、視るに触れ聴くに触れ、只悲しき感(おもい)を催す。中心に忍びがたき襟(むね)を抽(ひら)きて、肝胆隔てざる人に示すなり。内(宮中)に参る後、掖陣(えきじん)の下(もと)に於いて返事を披見す。云はく、
「世の中をはかなきものと知りながらいかにせましと何か嘆かん」
伊尹流の人々にはこのような無常観があったようだ。藤原行成が晩年母の里方の代明親王の邸宅だった桃園第]に隠棲し、邸宅内に世尊寺を建立した。その子孫が代々そこを住居としたため「世尊寺」の家名が成立した。そして、世尊寺流は書道の流派のひとつでもある。