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ヌーソロジーと食とウパニシャッド

ヌーソロジーは「無断転載を命ず」なので、バリバリ転載しています。


「食べること」について

半田さんのブログ。

以下に一部を転載。

●交信記録19940205

コ 人間において食べるという行為は(あなたがたの)意識において何を意味しているのですか。

オ 形作る次元を内面に生み出すということ。表相から内面に働きかけるということです。定質の対化によって元止揚を生み出していくためには必要な行為です。

コ 元止揚とは何ですか。

オ 反映としての覚醒作用を意味します。中和の交差の上次元に働かされるもの。変換作用が作り出されるときに働きに変えられるもの。人間の意識の方向性を反映から次元に変えるもの。

https://www.noos.ne.jp/cavesyndrome/?p=9382

「表相から内面に働きかける」。
思形という感じがします。「大文字の他者」ということです。

大文字の他者

思形と大文字の他者。

「●SU(2)対称性によって発生する第三の視線」。
最近は個人的にSU(2)の感覚が掴めてきたので、思形とか食とか、そういうところに嗜好が、もとい思考が向いているところです。

植物食と動物食

同じく冒頭のブログ記事より。

●肉食はほんとによくないことなのか

レクチャーなどで、こういう話をすると必ず出る質問がコレ。

「肉食はよくないのではないですか」(笑)。

例えば、『日月神示』では「四ツ足を食ってはならん、共喰となるぞ、草木から動物生れると申してあろう、神民の食物は五穀野菜の類であるぞ」との一節があり、霊的な意味から肉食を固く禁じている。

しかし、OCOT情報は次のような言い方で、決して肉食を否定しない。
「食べ物は植物にしても動物にしても、人間の方向性を形作るための大事な核質にあたります。共性されることも共性されないことも人間が選んでいるということです。」

「共性」とは進化をもった方向の意識のことをいう。
肉食は動物の生成次元との等化を意味し、人間の意識を人間の内面方向に働かせる。
一方、菜食の方は、植物の生成次元との等化を意味し、こちらは人間の意識を人間の外面方向に働かせる。

基本、人間の意識進化の方向は人間の外面の方向にあるので、確かに菜食の方が好ましいとも言えるが、OCOT情報はそれは人間の選択であって、高次が誘導することではないと言う。
人間の内面の意識の負荷が充分にかからなければ、その反映力も十分な力を持つことができず、進化もまた起こらないからだ。
シュタイナー的にいうなら、アストラル体が強くなるか、エーテル体が強くなるか、そのようなものだ。

https://www.noos.ne.jp/cavesyndrome/?p=9382

人間の意識進化の方向は人間の外面の方向にあるので、確かに菜食の方が好ましいとも言えるが、OCOT情報はそれは人間の選択であって、高次が誘導することではないと言う」という箇所。

これに関する日月神示(ひふみ神示)の記述もあります。

ひふみ神示 第三十巻 冬の巻
補帖
病、ひらくことも、運、ひらくことも、皆 己からぢゃと申してあろう。誰でも、何でもよくなるのが神の道、神の御心ぢゃ。親心ぢゃ。悪くなると云ふことないのぢゃ。迷ひが迷ひ生むぞ。もともと病も不運もない弥栄のみ、喜びのみぢゃ。神がよろこびぢゃから、その生んだもの皆よろこびであるぞ。この道理よくわきまえよ。毎日々々、太陽と共に、太陽について起き上がれよ。その日の仕事、与へられるぞ。仕事いのちと仕へまつれよ。朝寝するからチグハグとなるのぢゃ。不運となるのぢゃ、仕事なくなるのぢゃ。神について行くことが祈りであるぞ。よろこびであるぞ。食物、食べ過ぎるから病になるのぢゃ。不運となるのぢゃ。口から出るもの、入るもの気つけよ。いくさ起るのぢゃ。人間の病や、いくさばかりでない、国は国の、世界は世界の、山も川も海も、みな病となり、不運となってくるぞ。食べないで死ぬことないぞ。食べるから死ぬのぢゃぞ。  一椀をとって先づ神に供へよ。親にささげよ。子にささげよ。腹八分の二分はささげよ。食物こそは神から、親から与へられたものであるぞ。神にささげずにむさぶるからメグリつむのぢゃ。メグリが不運となり、病となるのぢゃぞ。運ひらくのも食物つつしめばよい。言つつしめばよい。腹十分食べてはこぼれる。運はつまってひらけん。この判りきったこと、何故に判らんのぢゃ。  ささげるからこそ頂けるのぢゃ。頂けたらささげると今の人民申してゐるが、それがウラハラと申すもの。衣類も家も土地も、みな神から頂いたのでないぞ。あづけられてゐるのであるぞ。人民に与へられてゐるものは食物だけぢゃ。日のめぐみ、月のめぐみ、地のめぐみだけぢゃぞ。その食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。病治るのぢゃ。人民ひぼしにはならん。心配無用。食物、今の半分で足りると申してあらうが。遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。そんなこと位で、病治ったり、運ひらける位なら、人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理屈と申すもの。理屈悪と申してあるもの。低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。  理屈すてよ。すててやって見なされ。みなみな気つかん理(ミチ)、気つかん病になってゐるぞ。ツキモノがたらふく食べてゐることに気づかんのか。食物節すればツキモノ改心するぞ。先づ百日をめあてに、百日過ぎたら一年を、三年つづけたら開運間違ひなし。病もなくなってうれしうれしとなるぞ。三年目、五年目、七年目ぞ、めでたいナア、めでたいナア。六月九日、ひつくの神。 以上

https://hifumi.tomosu.link/all.html

人民に与へられてゐるものは食物だけぢゃ。(…)その食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。病治るのぢゃ。」

というのが、人間の自由意志というか、人間の意識進化というか、そういうものが高次元存在の言いなりではなく、自立的な(自律的な)もの足りえるひとつの要素のように感じます。

●やがて人間は「不食」になる

●やがて人間は「不食」になる

その意味で言うなら、菜食主義者たちは2013年以前の世界までは、不遇の時代だったとも言える。
人間社会は、人間の内面の意識バリバリで過ごす方が過ごしやすいし、社会的、経済的成功も人間の内面の意識が強くないとままならない。

しかし、2013年以降は大元の精神自体が反転を開始しているので、菜食派が徐々に主流となっていくのは、まず間違いないだろう。
そして、最終的にはOCOT情報にもあるように、人間は不食になるのだろう。

それは、植物が行っている光合成を、人間自身が意識の力で行えるようになるからだとOCOT情報は言う。
言うなれば、いい意味での”植物人間”、フォトシンセサイザーになるわけだ。

しかし、そこまで行くためには、ヌーソロジーで言うなら、次元観察子Ψ1~12までのカタチがすべて顕在化を起こさないといけない。それは、相当先のことだ。
そのとき、人間は、いつも言ってる「絶対不動の私」が普通の感覚になっているのではないかと思う。
物質空間の密度よりエーテル空間の密度の方が断然高くなっているからだ。

植物のクロロフィルの核となっているマグネシウム元素(Ψ12)は、そのような意識を獲得した意識存在における精神核に相当している。
そこは、ある意味、太陽の内部と言ってもいいような場所でもある。

https://www.noos.ne.jp/cavesyndrome/?p=9382

ヌーソロジーで言われるSU(2)の感覚が生まれてきてから、食というものへの衝動が薄くなってきたように感じています。

ちょうど昨日、都市伝説系YouTuberの「ミルクティー飲みたい」さんが食について動画を出されていました。ヌーソロジーのSU(2)的な空間認識の観点から食について思考を始めていたところだったので、シンクロニシティを感じます。


ウパニシャッドの二羽の鳥

『シリウス革命』p.455~を参照してください。

これはヌーソロジーで言われる「自己他者論」ということでもあります。
私が私ということを感じているとき、例えば美味しい食べ物を食べているとき、私は私らしいと言えるのではないでしょうか。(もちろん、ここでいう「私」とは肉体的な私であり、通常ヌーソロジーで言われる自己他者の「自己」とは存在論的差異があります。)
しかしながら、実は私が私ということを支えているのは、実は他者なのではないかと、最近感じるようになってきました。大文字の他者ということです。
同様に、あなたがあなたであるという認識、単純に言えば他者というものの認識は、私あるいは自己としてのわたしが支えているのではないか――そのような感覚が生まれてきています。

仮に、私が飲まず食わずで仕事をしているとき、隣の席で同僚がタピオカミルクティーを美味しそうに飲んでいる、食しているとしましょう。そうしたとき、私は彼または彼女に嫉妬、あるいは羨望のような感情を抱きます。あるいは、複数の同僚が楽しそうに会話をしているときも同様です。私は仕事の集中力を削がれ、もっていかれそうな感じになります。
私は見せつけられているのでしょうか。そうかもしれません。ここにおいて、大文字の他者というのは私が担わされています。周りの楽しそうな二人の同僚だとか、あるいは1人の同僚と1つのタピオカミルクティーとか、そういった自己他者の共鳴において、私という第三者的な目線が、大文字の他者として用いられているのです。
しかし不思議な感覚でもあります。なぜなら、そのうらやむべき同僚たちというのも、私の視線によって生かされているという言い方ができるからです。であれば、私もまた、ある意味彼らの共犯というような言い方もできます。
しかしながら、同僚たちを羨むように見ている、と思われてる私自身もまた、誰かにそのように見られていることによって、成り立っているのです。あるいは実際には自意識過剰なだけということもあるかもしれませんが、その場合でも妄想において、見られているということが言えるのだと思います。
自我としての私というものが、実際の他者視線でなく妄想における他者視線によって妄想的に肥大化してしまっているということが自覚できると、自我を薄め、本来の濃さにすることができるのかもしれません。

これもまた、カオナシのように例えられます。

自我の肥大化したカオナシ。

https://www.ghibli.jp/works/chihiro/#frame

適度に薄まったカオナシ。

https://www.ghibli.jp/works/chihiro/#frame

こういった自我の肥大化というものも、上述したひふみ神示の「ツキモノ」(憑きもの)の話につながるでしょう。

話をウパニシャッドに戻しましょう。

ウパニシャッドの逸話はヌースの思考法の原点です。

やはりウパニシャッドの二羽の鳥の話は、ヌーソロジーにおいてキモ(肝要)になってくるのだと思います。

量子論とか素粒子論で言われる「スピン」というのも対応しているようです。

人間には欲望があります。「食欲、性欲、睡眠欲」というのは一般に三大欲求として知られています。

ひふみ神示 補巻 月光の巻
第三十八帖
はじめの喜びは食物ぞ。次は異性ぞ。何れも大きな驚きであろうがな。これは和すことによって起るのぞ。とけ合ふことによって喜びとなるのぢゃ。よろこびは神ぢゃ。和さねば苦となるぞ。かなしみとなるぞ。先づ自分と自分と和合せよと申してあろうが。そこにこそ神の御はたらきあるのぢゃ。ぢゃがこれは外の喜び、肉体のよろこびぞ。元の喜びは霊の食物を食ふことぞ。その大きな喜びを与へてあるのに、何故 手を出さんのぢゃ。その喜び、おどろきを何故に求めんのぢゃ。何故に神示を食べないのか。見るばかりではミにつかんぞ。よく噛みしめて味はひて喜びとせんのぢゃ。喜びが神であるぞ。次には神との交わりぞ。交流ぞ。和ぞ。そこには且って知らざりし おどろきと大歓喜が生れるぞ。神との結婚による絶対の大歓喜あるのぢゃ。神が霊となり花むことなるのぢゃ。人民は花よめとなるのぢゃ。判るであろうが。この花むこはいくら年を経ても花よめを捨てはせぬ。永遠につづく結びぢゃ。結婚ぢゃ。何ものにも比べることの出来ぬおどろきぞ。よろこびぞ。花むこどのが手をさしのべてゐるのに、何故に抱かれんのぢゃ。神は理屈では判らん。夫婦の交わりは説明出来まいがな。神が判っても交わらねば、神ととけ合はねば真理は判らん。なんとした結構なことかと人民びっくりする仕組ぞ。神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ。消えざる火の大歓喜ぞ。これがまことの信仰、神は花嫁を求めて御座るぞ。早う神のふところに抱かれて下されよ。二月一日。

https://hifumi.tomosu.link/all.html

ヌーソロジーでも「性」については色々と言及されています。男性の性欲と女性の性欲は、ノスとノウスに対応しているとか、人間の内面と人間の外面とかとの対応関係とかありますが、今回は「食」がテーマなので深くは追わないでおきます。

ラカンとか思形とか感性とか見えてきた気がします。


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