「普通という言葉の罠」
普通という言葉がある。
普通は、とよく使う言葉である。
私も使う。
なぜなら伝わりやすいからだ。
ルール、規則、平均が普通であるから。
ルールや規則は、ある程度は仕方がないと思う。
ある程度の縛りは、身の安全でもあるからだ。
だが、人の特性に関しては違うと思う。
生まれ持ったもののことである。
私の中学、高校の時の話をしよう。
まず、くせ毛で赤毛である。
ピンときた人もいるかもしれない。
学校に、くせ毛と赤毛の証明書を提出した。
今もそんなことをしているのかはわからないが。
要するに、日本人は直毛、黒髪が多い。
くせ毛、赤毛は異質である。
校則に違反する内容だ。
だが生まれつきだ。
どうする?
校則検査の時に区別するために、証明書を出させよう。というようなことであろう。
これは単なる一例であるが、普通ではないものに対する理由付けである。
普通は黒髪で直毛だけど、彼女は生まれつきだから仕方がない。
証明書が出てるから良しとしよう。
そういう区分けのためのものである。
普通が悪いわけではない。
普通の枠から外れていても悪いわけではない。
「普通」
その言葉に翻弄されてはいけない、ということである。
普通とは、枠内におさめることだ。
一定の額の中におさめる。
管理がしやすいから、である。
少しずつ流れは変わっているように感じるかもしれない。
異質なものが認められているような風潮に。
そうだろうか?
私はそうは思っていない。
今も変わってはいない。
認めたような雰囲気にしているだけだ。
単に個性という名を語った誤った自由という名のもとに、なんでもありになってしまっただけである。
そして、異質に名前をつけ、ただその枠に押し込んでいるだけ。
人は、複雑であり、一括りにすることはできない。
いつになったら気づくのであろうか?
気づく日は来るだろうか?
ヒトに期待などしていない。
だが、希望はある。