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「ADHD、HSP、エンパスなどは、特性に名前がついてるだけだと思っている」

書いた記事に追記したいと思った。

私は、ADHD、HSP、エンパスである。
私は50代半ばなので、子供の頃にこういう言葉はなかった。

なので診断が下されたわけではない。
ただ、何が影響しているかはわからないが、とにかくわかっていた。

「人に悟られてはいけない」
ということだけは。

人と違うということを、である。
人と違うことは、攻撃対象になることを理解していたのだと思う。
本能的に、ヒトは異物を受け入れないのを感覚で読んでいたのだろう。

子供の頃から、同時にいくつものことをこなしたし、
1言われれば10理解した。
親にとっては、扱いやすく、よくできた子である。

嫌なことを徹底的にゴネたり、集中しだすと止めるまでやってしまう点をのぞいては。

その部分は、子供だから、と、夢中になりやすい、と受け取ったようであった。

人と話すのが苦手だった。
何を考えてるかわかるし、それが怖かった。
大人しかったのはそのせいだ。
大人は人見知りなんだ、と思っていたようだ。

運動できないけど、勉強は誰にも負けない子

勉強はできないけど、運動は負けない子

勉強も運動もできないけど、絵は上手い子

歌だけが上手い子

すべてが平均的な子

学校のクラスにいた子供たちだ。
私は、すべてが平均的な子、に近づけていた。
目立たなく、何も言われない位置。

世の中はすべてがそつなく平均的な子、を求めているのだろうか?

すべてが平均的な子、しかいなかったら何も生まれないのではないだろうか?

たまたま、突出している部分がある。
見えているものが人と違うから、表現の仕方が違う。

それは認められないのだろうか?

私は、たまたま自分でうまく適応させることを覚えただけだ。

発達障害と診断された当人や家族、パートナーが苦しむのは、「平均化」が生み出したもののような気がしてならない。

皆、同じでなければならない

暗黙の、見えない呪縛に取り憑かれていると感じる。

NOTEに綴りだして思った。
今でも、人混みは苦手だし、気をつけていても人の感情をもらってしまうことはある。
自分を楽にする方法、整える方法を習得しただけである。

鈍感だったら、感受性が強くなかったら、人の気持がわからなかったらよかった、と思うこともあった。

今は違う。
2倍、3倍の経験ができると思っている。
この特性があったからこそ、人よりできることがあり、
完全に理解することはできなくても寄り添うことはできる。
なぐさめとかではなく、経験として持っているものがたくさんあるからだ。

悲しい経験をした人、辛い思いや経験をした人。
人よりたくさんのギフトをもらっている。
そして、そのギフトはまたどこかの誰かに渡すためにもらったものだ。

与えられ、そして与えることができる。
自然の大法則「循環」だ。

書こうか迷ったことを書き綴ったことで、本当に素晴らしいものを与えられたと気づくことができた。

今後、私がもらったギフトをどう渡していくかはわからない。まず、はじめの一歩は綴っていくことであろう。

今、向き合っている人へ、
諦めないでほしい。
与えられたギフトを使えるのはあなただけなのだから。

家族やパートナーなど、支えてる人へ。
疲れたら休んでほしい。
一人の時間を持つことは、自分を癒し、大切にすること。
自分を大切にできて、はじめて人を大切に思える。
自分の時間を持つことに罪悪感を感じないでほしい。

すべては循環、なのだから。

少しでも響くものがあれば幸いである。





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