AI推進派と規制派との棲み分け(又は隔離)

AI技術について、人々の共通理解にはまだ遠いらしい。
他の分野における議論は詳しくないが、少なくとも絵画(イラストレーター、絵師)分野では深刻な分断があるとされている。

自分はAI推進派だが、賛否に関して新たな視点・論考を提示できるところまで洞察できていない。したがって従来の議論をなぞるかたちに留まってしまうが、個人的に気になっている論点を以下に羅列したい。

絵画分野のAI規制派への疑問:
・AI技術全般を忌避しているのか。あるいは、文章や音楽、また医療や防犯、農業などでの活用は容認しているのか。
・AIが作者に無断で作品を学習することを拒絶しているが、人間が他者の作品を(勝手に)閲覧して学習することと何が違うのか。
・漫画等のキャラクターをアイコンに用いたり二次創作として描いているにも関わらず、自身らの作品保護には敏感になるのは公正さに欠けないか。

前記とは別に、AI推進派の論拠においても不充分に思えるものがある。
AI規制派は、絵画作品がAI学習に用いられることを嫌悪する。これに対して「画像データのまま保存するのでなく、数列に還元した情報を学習しているため、事実誤認であり問題ない。」とAI推進派が反論する場合がある。
しかしながら、画像データのままだろうが数列置換だろうが、学習元を踏まえた出力のために学習しているわけなので、学習過程そのものは本質ではない。
そもそも我々人間が視覚情報を学習し復元する際も、画用紙や現像紙を大脳に挿入しているのではなく、視神経を通して信号化された情報が大脳で処理されているという点で、AI学習と類似している。

AI技術の賛否に関し、推進派は主に合理や法律の面から賛成しており、規制派は主に感情や慣習に依拠して反対している印象がある。こうした印象が、自分自身がAI推進派であり、なおかつ(社会制度に関しては)合理や法律を中心に考えている(と自分では思い込んでいる)ことによる偏見が含まれていることは否定しない。
その一方で、「お気持ち」などと揶揄的に表現される感情の作用が、社会制度論においても軽視されてよいとは思わない。とにかくイヤなものはイヤ、と感じる人が一定割合以上いるのであれば、そこに合理性が欠けていても、ある種の社会通念や信仰などというかたちで尊重されるのもまた歴史的には珍しくない。

個人的には、SNS上でAI規制派との棲み分けができたことにしておけば、感情的には一定程度の解決が図れるのではないかと考えている。
無論、そうした棲み分けというか隔離をされるべきなのはAI推進派だと思う者もいるのだろう。
しかし自分としては、社会空間で普遍的に通用する法の支配の観念と整合性・親和性があるのはAI推進派の主張と認識している。そのためAI推進を社会基盤とした上で、それに違和感を抱く人々が安寧を得られるプラットフォームが設けられれば、それ以上の衝突を暫定的に緩和できるのではないだろうか。

具体的には、「このSNSプラットフォームでは――利用者に著作権のある絵画情報がAI学習に利用された場合、利用者は提訴する権利がある。また、AI絵画を掲出することは禁じる。」等と定めればよろしい。
法的にも技術的にもおよそ無意味な規定だと思うが、これで何やら新しい権能を得られたと利用者が思い込めるのであれば結構ではないだろうか。

AI時代以降も、非AI絵画の割合が多いと思われるプラットフォームが存在することは、AI絵画か非AI絵画かの判別をAIに学習させられるという点でも意義があると思われる。
人間の目視ではAI絵画か否かの判別が困難と認識し始めたAI規制派にとっても、AI判別が発達することは有用だろう――AI学習を前提としていることに葛藤を感じるかどうかは知らないが。

繰り返しになるが、上記の案は法的な権利・義務に関わる棲み分けではない。相変わらず絵画は無断学習されるが、それに気付かないか、気付いても訴える権利はある(無論勝訴することはないが)と思えるのなら、利用者であるAI規制派の短期的な安心感は保てるだろう。
そしてアカウント登録や荒らし対策を厳格にすれば、外部からの心ないAI推進派による演説や居座りを排除できる。

このように書くと、そのプラットフォームを珍妙な絶滅危惧種の見世物小屋のように意図していると思われるだろう。
そうした内心を否定はしないが、その一方で特異な認識を持つ人々が、客観的な事実も含めて聞きたくないことを聞かないで済む権利(少なくとも心情)は尊重されて良いと自分は本心から思っている。
そうした人々の場にわざわざ闖入して、望まれてもいない言葉を撒き散らすのは罪悪だとも考える。

意見の異なる者達が誠実に討論し、より広い共通点を見出していく――という理想を目指すべきことは承知している。けれどもその一方で、議論が高じた結果中傷や紛争に至る事例があったことにも留意しなければならない。
一般空間における同心が難しいと判ったのであれば、外部に害悪を齎さない限りにおいて、半ば閉ざされた環境(前記プラットフォームの他、宗教団体や地域スポーツ倶楽部など)で独自の規範と言説を造り上げていく営為を責めたり妨げるべきではないと考える。

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