クリスマス・バレンタイン・ハロウィンが造られた伝統だとして

現代日本には季節ごとの風習・行事(イベント)が多い。というより、各季・各月を埋めるために行事を抽出あるいは生成している節すらある。
おかげで、カレンダーの挿絵は定形化できているし、日常系の漫画でも手軽に時季ごとの題材を選べる。
1月の初詣から始まり、節分(恵方巻)、バレンタインデー、ひな祭り、ホワイトデー、お花見、鯉のぼり、七夕、お盆、お彼岸、運動会、ハロウィン、クリスマスと続き、大晦日は大掃除や年越しそば、そして年始のカウントダウン――といった、広く定着している行事が切れ目なく続く。

これらの行事は、前近代からのものもあれば、明治期に広まったもの、また戦後に外国から採り入れたものもある。
そして非日常を楽しもうと積極的に参画する者の一方で、特に外国由来の行事には批判的な者も少なくない。
「外国からの文化侵略」、「宗教的背景を知らず皮相な猿真似」、「大企業・広告代理店・マスコミが濫造した流行」、「刹那的に享楽を求めているだけで、空虚」等々、辛辣な表現が並ぶ。

外国文化を皮相的にしか採り入れていないのなら文化侵略の心配はない気がするが、それでもなお、それぞれの言説には汲み取るべき考えもいくらかはあるとも自分は考えている。
自由、平等、個性、快楽、資本、等々、近代思想で頻出する観念はいくつもある。こうしたことの極大化が望ましいと確信している者はむしろ少数派で、近代社会そのものへ大なり小なり疑念を抱いている人間は自分も含めいくらでもいる。
そして先述の現代的な行事は、前記に挙げた近代社会の要素が強いため、そういう意味では行事への批判的視点から近代社会そのものを問うていく姿勢は注目したい。

けれどもひとまず風習・行事のあり方に限るなら、こうした論者は(あるいは我々は)どういうものが理想なのだろうか。
国際性を一切排した、日本固有の儀式。外国由来の場合も含め、その発祥から宗教的背景も含め予習した上で行事に臨む態度。一部の者が特定の意図を以て広めた流行でなく、様々な地域・民衆の中から自然発生的に広がった風習。そもそも行事とは、ハレの日とは、聖俗とは、という哲学的な洞察の上に執り行われる行事。

それでは我が国におけるこれまでの風習・行事はどのようなものだっただろうか。
盆や彼岸は仏教伝来に伴う用語であり、ひな祭り(桃の節句)や鯉のぼり(端午の節句)の黎明や経緯を知っている者はほとんどおらず、時の朝廷や宗教指導者がゴリ押しした行事も多く、そして机上の書生論よりもとにかく祭事を手伝って地域文化を守ることが尊ばれてきた。
こうした側面に鑑みると、先述のような批判者達が満足するような風習・行事が過去に営まれたことなどなく、無論未来にも培われることはないだろう。

個人的には、現代の風習・行事そのものへ特に不満はない。
あからさまに外国っぽいカタカナ行事よりは、大昔から受け継がれていると喧伝される祭事の方にどちらかと言えば愛着を感じたいけれども、日本人なりに形式を整えた行事であれば大差はない。先述の批判論の一つである「外国文化を切り抜いて勝手に改変している」という営為にこそ、日本の独自性が表れるとすら自分は考える。

また、広告代理店等の考案だとして何が問題なのだろう。自然発生的な人々の素朴な思念や振る舞いが長い歴史を経て結晶化したものが、祭事であり伝統(慣習)だとする説明には魅力があるけれども、そうでない祭事や行事が偽物だと言挙げする意義は乏しい。
自社の利潤を目的とする広告代理店を褒め称える義理もないが、これまでも数多の「新興行事」を企画しては一時の流行で終わっていった。その一方でハロウィンやら何やらが定着しつつあることについて、(それまでにおける企業の努力や苦心はどうでも良いとしても、)そういう行事には人々の思念や振る舞いと巧みに噛み合わせられるだけの何かがあったと理解するのが妥当だろう。

そもそも祭事・行事とは何のためにあるのか。祖先の事績を誇り、自然の恵沢を寿ぎ、人々の和親を尊ぶ、という題目も結構だが、享楽のために非日常を画することが本義だと自分は思っている。
そして行事には良くも悪くもその時代のあり方が反映される。
現代が良い時代かは判らないが、今の行事がこの時代に適応していることは間違いない。

衰退が案じられている、前近代から続く祭事・行事はなぜ求心力が弱まったのか。居住民なら全員参加が当たり前であり、好悪に関わらず役務を提供するのが必須とされた。
前近代なら、むしろこうした強制が地域の紐帯を高め、規律を保つことに役立っていたのだろう。
けれども、自治会加入すら任意で、嗜好も居場所も多様化した現代で、前近代の行事に人々を繋ぎ留め続けることは難しい。対照的に、クリスマス・バレンタイン・ハロウィンなどの行事に多くの人々が自発的に関わっている事実には、相応の要因があると認めざるを得ない。

ただ個人的には、クリスマス等(に限らず、初詣なども含め、)あまり社会的・国民的行事の輪に入ろうとする方ではない。そのため、世間がこうした行事に賑わっていることに疎外感を抱く人々がいることも理解できる。
更に言えば、「普通の人ならこういうのを楽しむもの」という決め付けは彼我に分断を齎すとも考える。
こうした妬み嫉みが、冒頭の批判論の奥底にあるとまで断じるのは邪推が過ぎるだろう。
しかしながら、浅薄で刹那的かも知れない現代的行事を禁じたところで、人々が歴史的な祭事に回帰するわけでもない。したがって自分としては、今の時代なりに人々の繋がりやら文化やらを感得できる、これらの風習・行事を肯定する立場を採りたい。勿論現代という時代そのものへの疑義を手放さないままで。

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