ズルくない方のコネ
上流階級でない自分のような者達にとって、縁故(コネ)はズルいと感じられることが多い。
入学や商取引などの重要な場面で、実力でない要素で劣後されるのは、自分事でなくとも憤りを感じる。
とは言え、ズルいという感情は直感的かつ多義的なので、同じく多義的である縁故の類型も検討しつつ、何故に我々は縁故をズルいと思うのかを本文で考察したい。
なお本文では、人間関係の利用を縁故と定義する。
そのため、出生地の貴賎や学歴、保証金の有無による不公平感は議論しない。こうした事柄もまた人間関係の多寡と関連し得るけれども、ここでは論点を絞りたい。
まず縁故が作用し得る場面を列挙してみる。入学や入試など、主に人材として採用されるとき。あるいは商品や企画、出演者オーディションなど、主に機能として採用されるとき。
次に縁故を類型毎に仕分けてみる。家族や知人の立場に依存した、他力縁故。自身で人間関係を深めた、自力縁故。ただし自力縁故は、ほぼ完全に自身の社交や才覚で初対面から親密になった独力縁故と、関係を深めたのは自身だが切っ掛けとしては家族・知人の紹介による半自力縁故に細分できる(限られた有力者ほど、一見から親しくなるのは難しい。)。
続けて、我々はどういう時にズルいと感じるのかを(縁故が作用する事例を使って)再検討してみる。
第一に、近親者を頼りにした他力縁故の場合、人材採用でも機能採用でもズルいと感じる。採用候補を能力主義で選別するべきところ、それ以外の偶然性に左右されるのは不公平に思える。
ただし人材採用の場合、縁故が品質保証にもなり得る。
第二に、人材採用と比べ候補の比較が容易な機能採用の場合、自力縁故でも他力縁故でもズルいと感じる。
人間そのものの属性は数え切れず、評価項目もその多さに準じ得る。一方で商品や企画、出演者オーディションの場合は必要な機能が具体的で、評価項目も限られる。
そこで「ある候補を推した者の人間関係の広さ」が入り込む余地は殆んどないにも関わらず、縁故で左右されるのは機能採用の趣旨に反する。
前記の第一・第二の想定に鑑みると、人材採用で自力縁故(独力縁故)を用いるなら、肯定できる場合が見出せるようにも思える。確かに縁故を自ら構築できたことは、それだけで社交性など組織が求める能力の証明になる。
ただしその場合でも、次のような状況ではズルいと感じられるだろう。
例えば単純な学力試験のみで採用すると謳っているにも関わらず縁故が作用されるのは、透明性・信頼性が損なわれ、要するに欺瞞と捉えられる。
また、筆記試験や面接試験の結果も加味し、総合的――候補の人間関係も含め――に判断するとの定めがある場合でも、縁故で評価された要素と、採用組織の方向性とが合致しない場合も擁護は難しい。根気強く正確な調査ができるとか漁業現場の実地体験が豊富とかが、個別の付き合いで判明しているのなら、大学や水産企業の採用に利するのは一応理解できる。一方で単なる気のいい釣り仲間というだけで採用されても、とても納得できない。
この他、中途採用や委託取引等で自力縁故(独力縁故)を活用するのは珍しくないが、高校や大学の入試での自力縁故は想像し難い。社会人なら縁故形成の機会は充分あり得るが、義務教育-未成年期での縁故は他力縁故(せいぜい半自力縁故)という予断が我々にはある。
以上を踏まえると、「採用趣旨に沿うかたちでの能力志向、又は、採用要件を担保する透明性」が損なわれた場合、多くの者はズルいと考える。
その一方で、縁故採用する側の理屈・利益も確認しておきたい。
まずは先述の品質保証が挙げられる。信用できる者の自薦又は他薦による人材・機能なので、玉石混交の一般公募より考慮に値する。また仮に不良だった場合に、推薦者に求償し得る。
とは言えその信用性なるものが、採用者及び推薦者の確かな審美眼に裏打ちされているのか、単に両者が確かなお友達だからに過ぎないのかは測り難い。
次に採用行為外での有益性を指摘できる――と言うか、先の品質保証は建前で、大抵はこちらが本音となる。
採用に値しない人材・機能を選んでしまったことで多少の不利益は生じる。しかし縁故を活用したことで、然るべき者との良好な関係を保てる。それにより採用以外の分野において、前記の不利益を超える利益を期待できるのであれば合理性があると言える。
勿論こうした実情が明らかになれば、要するに採用者は「有力者からの施しのためなら無能も選びます」と言っているわけで、事業本旨に背いていると思われても仕方ない。
以上、採用者側の理屈を聞いても、理解はできても了承はできない。とは言え、縁故に恵まれない者達も、縁故を肯定する考え方を一部取り入れてはいる。
自身が採用されたい時、受験テクニックや面接室外での所作など、評価項目から少し外れていることをも利用して有利になろうとする。
自身が採用(新聞、保険、今日の昼飯などなど)する場合も、内実を把握しようと試みる一方で、惰性や付き合い、風評が大勢を占めてしまうことも少なくない。
自他ともに公正さを希求しつつ、それが完全に成し得ないことも熟知している。
勿論、不合理さも含め自由に行動して良い我々個人と、一般公募等をおこなうからには一定以上の社会的責任を負う組織とを同列視できない(ただし縁故に関しては、採用する側の組織を社会的責任から追及することよりも、採用される側の個人を嫉妬・怨恨から糾弾することの方が、しばしば強調される。)。
いずれにしても社会的な不公正――ズルさを撲滅するという意味で、不適切な縁故への批判精神は持続されてほしい。
けれどもここまで仕分けてきたように、縁故の是非は個々の実情を精査しなければ判別できない。加えて部外者にはそもそも見分けがつかない場合も多い。
こうした要素をなおざりにして縁故というだけで断罪することは、我々が嘆いていた不公正さの再生産に他ならない。