昆虫食は食料危機を遠ざけるけど、食料危機では役に立たない
昆虫食の試みが国内外で少しずつ広がっているらしい。
ただし我が国では、その見た目などから激しく賛否が別れている。
本文では昆虫食産業の有効性を考察したい。
先に昆虫食の利点を中心に略述する。
ヒトに必要な諸栄養素のうち、主にタンパク質を摂取するという点で畜産業と共通する。しかし牛・豚・鶏などに比べれば、飼育面積・成長期間・水や飼料・糞尿などの排出物、が少なく済む。
そのため、都市部の狭い空間でも事業ができる他に、環境負荷・持続可能性の点で有用とされる。
その一方で、疑念や不安も多く示されている。
ここでは、批判とそれに対する自分の見解を、順次羅列していく。
第一に、「昆虫食自体が唐突に提起されたもので、我が国の食文化の慣習に馴染まない」という指摘について。
明治以降、畜産業や酪農業が本格化し、なおかつ農業や漁業においても新種の果物や鮮魚の供給が可能となった。こうした趨勢は敗戦後の経済成長に伴い更に充実した。
明治の殖産興業と、昭和の高度成長という二つの画期を経て、現在の食生活がかたち作られたと言える。
ただしこれもよく知られている通り、地域によっては古代よりイナゴ等を食べる習慣があり、それは現代までも細々と続いている。
「昆虫食も(一部地域で)長い歴史があったのだから」という事実が、この種の伝統・慣習論で有効なのかは微妙だが、明治以降で肉食がすぐに広がった以上、そもそも「慣習化した食文化」なるものがあまり当てにならないとは言える。
第二に、「ごく単純に昆虫が気持ち悪く、食べたいとはとても思えない」という感覚について。
個人的にはよく分かる。元々食べ物の好き嫌いが強い自分としては、多分一生虫を食べないと思う。
この点、昆虫を焼き・揚げ・炒め・煮込み・蒸しによってある程度原形を留めたまま調理する方法もあるが、乾燥・粉末化して成型する方法もある。
後者ならば、いくらかは抵抗感が和らぐのかも知れない。
しかしそもそも、我々は被食体へどのように向き合ってきただろうか。
牛や豚は食べたいけれども、屠殺の現場は見たくないと目を背けたり、魚の捌きすら気持ち悪がったりする者も少なくない。
それを他人にやらせることの是非はこの際措く。しかし、「加工の過程を考えないようにしつつ、原形を感じさせない何かの塊が食卓に並ぶのなら美味しく頂ける」というのなら、それは粉末加工された昆虫にも容易に当て嵌まると予想できる。
第三に、「衛生・健康面の影響が未知数であり、それを規制・保障する法整備も見通しがない」という不安について。
基本的にはもっともな懸念であり、これらの事柄は不断に検証していくべきと考える。
ただ、新興産業においてはどうしても未知・未確定な要素があり、普及が進む中で大小の不具合や事故を経つつも、それを踏まえた決まりごとがかたち作られる。
逆に言えば、新しい分野が形成されるにあたり、完璧な設計を予め準備しておくことはできない。
この辺りは、肉食や輸入果物、温室野菜、遺伝子組み換え食品などが、導入当初は得体の知れないもの扱いされていた経緯と変わらない。
第四に、「突然に昆虫食が好意的に報道され始めたことに、政府や報道機関、利害事業者による作為性を感じる」という陰謀論について。
この点は特に語ることはない。ただ、嫌なら自身が食べなきゃいいだけの話なのに、なぜそこまで反発するのだろうかという素朴な疑問はある。
昆虫食の推進と併せて、なぜかこっそり基本的人権が剥奪され、意に反して虫を食べさせられることを心配しているのだろうか。
個人の自由を大切にしているらしい割には、「ある行為が一般化されていくこと」と「その行為を自身が選ぶこと」との違いを理解できておらず、したがって「自身がやりたくないことは、他の者達にもやらせない」と、自他の境界が未発達なのかも知れない。
ちなみに極めて手前勝手なことを言えば、自らが虫を食べたくないからこそ、他の大勢に昆虫食が広がってほしいとすら自分は感じている。
後述の通り、昆虫食の普及が食料危機を遠ざけると仮定してみる。その場合、今の時点から多くの人々が虫を食べていてくれれば、その分だけ自分が肉を食べられる終期を先延ばしできることになる(ただし肉食の需要が抑えられると、肉の価格は今よりも上昇せざるを得ないだろう)。
以上、昆虫食への懸念には、留意するべきものも一部あり、したがって入念な事前検討を要することは大いに同意できるものの、昆虫食そのものを全面的に禁止・排除するような論拠はない。
その上で、食料安全保障との関わりから自分としては次のように考える。
昆虫食は、食料安全保障が想定する危機的状況でも有効という肯定論がある。先述に挙げた、飼料からの変換効率の高さ・成長の速さ・狭い空間でも実行できる等の特徴がその理由として説明される。
確かに「危機」として想定される状況のうち、いくつかの類型においては昆虫食の優位性が発揮されるかも知れない。典型的には、畜産業を維持できるだけの大量の飼料を確保できない場合。
しかし食料安全保障で想定される危機的状況は多岐に渡る。そのうち最も深刻なのが、天災・戦災により石油等のエネルギーや、精密機器に必須の半導体の入手が困難なときと自分は考える。
昆虫食産業では、空調や給餌・排水などで高度な自動監視体制が要求される。これらは言うまでもなく、石油・半導体が不足していると維持が難しい。
ある程度までは人力で代替できるかも知れないが、生産効率は大幅に下がってしまう。
当然ながら前記の危機状況では、畜産業や漁業に限らず、農業や酪農業も低調になる。しかしこれらの産業は、産業革命以前から営まれていた分、激しく能率が落ちるにしても原理的には全ての工程を人力で代替できる。
空調を維持できなければ全滅してしまう昆虫とは大きく事情が違う。
つまり昆虫食産業は、状況の深刻度によってはむしろ脆弱とすら言える。
しかしそれでも、以下二つの理由から自分としては研究・実践を進めることが望ましく、更にそれを推し進めるために一定の公的助成があっても良いと考えている。
一つに、実践的研究によって、現代技術が必須という前記の弱点が是正される可能性も僅かにある。
あるいはそうでないにしても、畜産業のあり方と併せて吟味することで、例えば事業地の共用化やそれぞれの排出物の相互融通など、「エネルギーや精密機器が不足している状況でも、最小限の資源消費で畜産業と昆虫食産業とが共に持続できる方策」を案出できるかも知れない。
どちらにしても、この観点においては、平時の昆虫食産業の研究とは別に、有事の昆虫食産業(及び他の食料源産業)の総合的検討が求められる。
二つに、先に示した昆虫食産業に係る環境負荷・持続可能性の優位性は、食料危機の到来時期を直接的に遠ざけると自分は理解している。
無論食料危機に至る原因は、予測不可能なものも含めて様々ある。
しかし、「世界的な人口の大幅増と、それとは反対に残された埋蔵資源が漸次減少」していく結果として、人々に充分な量のタンパク質を提供できなくなることが現在予想されている。
ということは現時点で少しずつ昆虫食に切り替えていけば、その分だけ危機的状況の蓋然性が小さくなる。
要するに、食料危機にならないために昆虫食の発展が有効であり得るが、実際に食料危機になったらせっかく軌道に乗せていた昆虫食産業が役に立たなくなる、という矛盾・葛藤がある。
この困難性を低減するために、食料安全保障の観点を交えた国策的研究が不可欠だが、どこまで成果が現れるかはあまり多くを期待できない。
自分としてはコオロギせんべい的なものを自発的に食べることは今後もないだろう。
しかし万が一、本当に食料が限られる環境になったら、先述の感情的な昆虫食反対派と一緒になって渋々ながら虫を食べるのかも知れない。
そして、自分も含めて大勢の人はその暮らし方にやがて慣れてしまうのだろう、と自分は思う。