子供に「連帯責任を」と求める大人は個人責任しか負わない

日本における「連帯責任」という単語は、「責任」の意味も明瞭に教えられていない義務教育期によく聞かされる一方で、「責任」を講学上のみならず体験的に分からせられる年齢になる頃には聞かなくなる。
連帯責任の簡便な定義としては、「事案と条理に鑑みて責任を負うべき者が複数名いる場合に、1名の過失を複数名の過失とすること」などとなるだろう。
しかしこの単語を義務教育期によく聞かされている時は、「(事案と条理に鑑みていようがいまいが)1名の過失を複数名の過失とすること」と認識するのではないか。

例えば≪清掃当番の怠慢で学級全員が制裁される≫ような記憶のある者もいるだろう。「責任」の本義に悖るこうした処置は、生徒に不条理さを味わわせると共に、「責任」の理解の妨げにすらなる。
仮に、日本社会全体において、≪個人/意思/自由/権利/義務…等≫の観念が他の近代国家と異なり、社会通念のみならず法体系においても独特の集団主義を採用しているのならまだ納得はできるかも知れない。わたしの罪悪はみんなの罪悪で、みんなの褒賞はあなたの褒賞で、あなたの義務はわたしの義務――のような。

けれども、現代日本(の少なくとも法体系)においては、基本的に意思や責任を個人に帰属させている。当事者間で、合意がなされていたり権利が共有されていたりする等に限り、連帯保証や連帯義務が形成される。
したがって、平素より連帯責任を連呼する学校教師や軍隊上官が個人として懲戒処分等を受けたとしても、管理職でもない同僚が「私達にも連帯責任があります」と申し出て減給処分や関係者への謝罪を仲良く共同する光景は見られない。

自身らが負うつもりのない連帯責任なる観念を、生徒らに押し付ける動機と影響について、ごく簡単に述べると次のようになるだろう。――
まだ「責任」観念が未発達の子供に「集団行動とはこういうものだ」と思い込ませれば、集団を管理するのは容易になる。
そして就労年齢になっても、例えば育休代替配置をしない経営層でなく育休社員に憎悪を向ける程度には、責任観念が歪んだままの者達で社会が構成されるオマケも付いてくる。
なおこうした情況の原因なのか結果なのかは解らないが、日本では善悪や因果を属人的に捉えがちで、制度論として考えることが苦手らしいということとも関係があるのかも知れない。

こうした日本社会の構造を、古代の支配層が意図的に造り上げたものとは断言できない。少なくとも現在もなお連帯責任を説いている人達は、単に模倣と惰性の中で言っているだけで、責任の意味も含めて何かを深く考察しているわけでは無いのだろう。

ただし無意識的にせよこうしたあり方が、社会全般における「責任」や「個人」などの理解の妨げになっているのなら深刻と言える。
とても陳腐なまとめで終えてしまうけれども、連帯責任と言われる時期を過ぎ、自身で様々なことを考えられるようになったのなら、自由と責任、権利と義務などの結び付きを適切に捉え、歪んだ認識が次世代に引き継がれないように努める程度の連帯責任はあるのだろう。

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