Lifestyle|フィンランドのクリエーター図鑑 〈09.アンナ・ヨハンナ・アルエ〉
首都ヘルシンキから北へ270km。3700を超える湖がきらめく湖水地方、フィンランドのおへそに位置するユヴァスキュラ。丘の上にある展望台からは、森と湖が折り重なるコンパクトな町並みを眺めることができます。今はまだ厚い氷に覆われたユバスキュラ湖。雪解けまではまだもう少し時間がかかりそうです。
この町でニットデザイナーとして活躍するのが、アンナ・ヨハンナ・アルエさん。自分で紡いだり、世界中から取り寄せたりした毛糸を使って多様なパターンをデザインしています。
今回は、紡いだキャリアで夢を編む、クリエーターの暮らしの根っこを紹介します。
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Anna Johanna Ärje(アンナ・ヨハンナ・アルエ)/ ニットデザイナー
ヨハンナさんは、フィンランド南東部にあるコトカで生まれ育ちました。キュミ川の河口に位置し、東側の国境にほど近い港町。国内でも有数の美しく整備された公園がいくつも立ち並んでいます。
絵を描いたり、文章を書いたり。自分の手で何かを創作する遊びが大好きだった幼少期。次第にファッションデザイナーに憧れるようになりました。フィンランドでは小学校の低学年から手工芸の授業が始まり、男女ともに手芸や木工を学びます。ヨハンナさんも学校で靴下やマフラーの編み方を教わりましたが、物心が付く頃には母親に習って簡単な編み物に挑戦していたといいます。
2人の祖母も編み物が得意で、クリスマスには毛糸の靴下やレース編みのカーディガンをプレゼントしてくれました。暮らしの身近にあった編み棒を意識的に手に取ったのは、ティーンエイジャーになってから。高校の授業で初めて編んだセーターはとても美しく仕上げることができましたが、ふと隣に目をやると、クラスメイトの作品が魅力的に映りました。あんな風に編んでみたい。家に帰ってから糸をほどいて、もう一度、家族に教わりながら編み直しました。
高校を卒業後、数学が大好きだったヨハンナさんはユヴァスキュラ大学へ進学し、統計学を専攻しました。学士課程を終えてからも研究を続け、2010年に修士号、2016年に博士号を取得しました。
水中や水辺に生息する貝や海老、蟹などの底生生物は、河川の環境の指標の一つに考えられます。ヨハンナさんの研究は、底生生物のなかでも最も小さな水生昆虫を、統計的手法を用いて画像から認識するようにコンピューターに指示を出すことで、自動的なモニタリングを可能にするものでした。
「大学で学んだ数学とプログラミングのスキルは、編み図を作成するときに、目数や段数などのゲージの計算などに活用することができます。」
ポストドクターとして、その後もしばらく研究職に就きますが、その一方で、大学に入学してからも、編み物はヨハンナさんのライフワークであり続けました。思いを共にする友人とブログを立ち上げ、新しい技術や様々な糸を試し、その持ち味や自身のちょっとしたひらめきを書き留めました。
「クリスマスまでのアドヴェントに、毎日一段ずつ糸の色を変えて靴下を編むイベントを思い付きました。そのプロセスをブログに公開すると、ある日、私たちの元に1通のメールが届きました。差出人は日本の方でした。彼女は、当時はフィンランド語で綴られていた私たちのブログを日本語に翻訳して、日本の手芸ファンのために紹介してくださいました。」
一針ずつ、情熱を編む。子どもが産まれて忙しくなった友人に替わり、ヨハンナさんはその後もひとりでブログを運営し続け、そのうち自分でもオリジナルのパターンをデザインするようになりました。2016年には最初のパターンを販売し、ニットデザイナーとしてのキャリアにわずかな道筋が見えてきました。小さく始めてみよう。33歳のときに屋号「Anna Johanna Designs 」を立ち上げ、研究の傍らニットウェアのデザインを手がけるようになりました。
副業としてニットデザイナーのキャリアを重ねて1年が経った頃、ヨハンナさんは再び人生の岐路に立たされました。大学での研究者としての任期が終わりに近づいていたのです。
「編み物がしたい。研究者としての道を歩きながら、その思いが心の真ん中にあることに、とっくの昔に気付いていました。副業として試しに始めてみたことで、実際にやれるかもしれないという自信が少しずつ膨らんで、夢の実現を後押ししてくれました。」
それまでは選ばなかった道、でも、心の奥底ではずっと思い描いていた道。一歩進んだ先には、一体どんな景色が待っているのだろう。ヨハンナさんは研究員としての雇用契約を更新せず、ニットデザイナーを生業にすることを決断しました。
追い風が吹いたのはそれから間もなくのこと。タンペレにある出版社からクリスマスパーティーに招待され、出向いた先で担当者から本を出さないかと相談を持ちかけられました。
2021年2月に上梓した『Onnensäikeitä』(Laine Publishing)には20のパターンが収録されています。ファッションデザイナーに憧れていた幼い頃の夢が、ようやく叶った瞬間でもありました。同年には第一子となる女の子を出産しました。
ベージュやオフホワイトなどのアースカラーをベースに編み込まれるヨハンナさんのデザインには、ノスタルジックとモダンが同居します。とりわけ、フィンランドの自然は大切にしているテーマのひとつです。2021年3月に発表した『Oras』は、柔らかな新芽の芽吹きを表現しました。
1本の糸を針にひっかけたり、通したり。毛糸が行ったり来たりしているうちに、手の中で少しずつ、作品が生まれていく。時間をかけて何かを作り上げることを日本語では「編む」と比喩するように、編み物は時間がかかります。
「私は特にセーターやカーディガンなど、大きくて完成するまでに時間がかかるものを編むのが好きです。ニット帽も靴下も編んでいて楽しいですが、すぐに編み終わってしまうので寂しいです。」
現在ヨハンナさんは、SNSを通じて国内外3.7万人のフォロワーに編み物の魅力を伝えています。中でも、定期的に行なわれるInstagramライブ配信「Teehetki」には、心地よい時間が流れています。
「生配信のライブ感が好きです。Instagramのライブ配信機能を使って、リアルタイムでフォロワーに向けて動画を配信しています。毎週日曜日の夕方4時になったら、たとえお風呂から出たばかりで髪の毛や足元が濡れていても、カメラの前に座り、私のリアルを共有します。編み物をしながら、一週間の出来事を自由に話して、参加者から寄せられたコメントに答えます。編み物を通じて、私たちは気軽に繋がることができます。」
気長に、先を急ぎすぎないこと。気持ちを緩めたり、張り詰めたりしながら、毎日を編むことで、自分だけの模様は描かれていくのかもしれません。
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\ ヨハンナさんにもっと聞きたい!/
Q. インスピレーションの源は?
手芸屋さんに行って羊毛や古い糸に触れることで、様々なインスピレーションが湧き上がります。自然から着想を得て、草木や花々を刺繍することが多いです。また、私は家族に協力してもらい、完成した作品を自分たちで撮影してブログやSNSに紹介しています。外を歩くときもロケーション探しにアンテナを張りながら。すると「この場所で撮影するなら、こんなデザインのニットがぴったりかも。」と、デザインの種が生まれることもあります。
Q. 好きな糸や糸紡ぎについて教えてください
加工を最小限に抑えた天然の羊毛が特に気に入っています。研究者だった頃は学会で海外に行く機会が多く、旅先では必ず手芸屋を訪れて、フィンランドで手に入らない糸でスーツケースをパンパンにして帰ってくることもしょっちゅうでした。
自分で糸を紡ぐこともやっていて、2つの糸車をもっています。そのうちの一つは父方の祖母の祖母が使っていたもので、120年以上の歴史があります。糸を紡ぐ技術は、毎週末に通っていた編み物教室で身に付けました。作家自身で紡いだ糸で編まれた作品をたまたま見かけて、それがとっても素敵だったんです。教室では講師の先生が手で小さく丸めた羊毛を糸車の上に乗せて、実際に糸を紡ぐ様子を見学することができました。そのうちに自分でもやってみたいと思うようになりました。タイミング良く、地元の手芸店で糸車を使った紡績のワークショップが開かれることになり、私も受け継いだ古い糸車を持って参加しました。
羊毛などの繊維のかたまりから繊維を引き出し、糸を強くするために“撚り”をかけ、糸を巻き取ることで糸は紡がれます。羊毛、車輪、ペダルの3つがリズミカルに動くよう練習を重ねました。私にとって糸を紡ぐことは特別です。糸を紡ぐ時、私は何世代も前の家族と空間を共にしているような気持ちになります。
Q. 時間をかけることについて
フィンランド語にも、「編む」という動詞を使って長い時間をかけて作られることを表すフレーズがあります。時間をかけて作られたものは、簡単には壊れません。
思春期を振り返ると、私は自分自身に根拠のない自信がありました。一方で、具体的にどんなことができるのかは皆目見当が付かず、不安もありました。そんな中で確信をくれたのが編み物です。時間をかけて丁寧に編まれたセーターやカーディガンは簡単には綻ばず、何年経っても着用することができます。時間のかかるものを自分の手で生み出すことに大きな幸せを実感しています。
Instagram:@usami_suomi