精神科入院とカウンセリング
真っ白い天井を見ながら
「ああ、母がいないってこんなに心地良いんだ。」と、ふと思った。
精神科に何度目かの入院をした。
拒食症がひどくなったり、自殺未遂をしたり…。
今回は、同居している母と離れるための、
一時避難的な入院だった。
「お母さんと距離を置いたほうがいい」
何度も主治医に言われてきた言葉だ。
私はうつ病と摂食障害を長年患っていた。
それでもなんとか仕事をして、自立してきた。
だが、数年前に線維筋痛症に罹った。
身体中が痛く、歩くたびに股関節に響き
跛行が現れるようになった。いわゆる「びっこ」で歩いていた。
そうして仕事を辞めざるを得なくなって、
私は母の家に戻った。
家庭の事情が複雑で、帰れない実家はよそにあった。
私の母は過干渉型の毒親だ。
30代になった私に対しても、メイクや服装に口を出し、出かける時は会う相手を申告しなければならず、当然のように門限もあった。
言葉遣いや言い回しにもケチをつけられ、
母の家は心安らぐ場所ではなかった。
その家に暮らしていると、如実のうつ病が重くなり、摂食障害の症状も頻発するようになった。
調子が悪くて吐いていると母に言った時は、
「洗面所じゃなくてトイレで吐いてるなら別にいい」と言われた。
病院のベッドの上で、今までのつらさが思い巡って、静かに涙を流した。
生きづらいというのは最近よく聞くフレーズだが、私はこのままでは生きていけないと思った。
服薬をきちんと守り、それでも良くならない精神科の諸症状…。
その時初めてカウンセリングを受けたいと思った。
私が変われば生きていける気がしたのだ。
初めて足を踏み入れたカウンセリングルームの中には、いろんな物があった。
テーブルと向かい合った椅子のほかに、ソファー。
おそらく箱庭療法に使う動物や信号機などのミニチュアが、棚に並べられていた。
カウンセラーは私と同年代の男性だった。
マスクをしているので、表情が読めない。
敢えてマスクをしているのだろう。
「母と向かい合えるようになりたい」
それがカウンセリング目的だと、彼に告げた。
そこから私の生い立ちから現在まで、
この時どう思ったのかなど丹念に聞かれた。
彼は頷き、メモしながら話を進める。
そして「お母さんとあなたは共依存です。
これからはお母さんのせいにしないで生きていきましょう。」と言われた。
頭が混乱した。
共依存なのは薄々気付いていた。
だが、私は上手くいかなかった事、病気になった事を母のせいにしてきたのだろうか。
言葉が出てこなかった。
入院仲間のカウンセリング経験者が言ってきた。
「カウンセリングはつらいよ」
ああそうなんだ。自分と向き合うってつらいんだな…。
カウンセリングで言われた事で答えが出せなかった時には、病室に持ち帰って考えて自分の中で噛み砕く。
こうしてカウンセリングを続けてきた。
カウンセリング中に、よく「でも私がお母さんに従わなかったら、お母さんがかわいそうだ。」という罪悪感に苛まれた。
ある時、いたたまれなくなり、それをカウンセラーに告げた。
「かわいそうという言葉は呪いです。
その人が解決すべき問題をこちらで処理してしまうと、その人は本当にかわいそうな人になってしまいます。」
共依存から抜けていなかった私にとって、
目から鱗だった。
そうか、私は私の思ったように生きていいんだ。
思うように生きるってなんだろう…。
新しいドアを開くと、また新しい問題が待っている。そんな日々だった。
問題が少しずつ解決していくので、
徐々につらさよりカウンセリングが楽しみな気持ちの方が大きくなっていった。
カウンセリングを受けはじめて半年経った頃、
私は母が嫌いんだと気付いた。
そうしたら急に心が軽くなった。
母の呪縛が切れた瞬間だった。
今まで母を疎ましいと思う事はあっても、
何かの勘違いで、本当は仲良くできるはずだと
思っていた。
でもそうじゃない親子がいても不思議では無い。
たまたま分かり合えない親子だった。
それだけの事だ。
母の呪縛が切れたのちも「呪縛の後遺症」は
私に付き纏った。
何かをする時に
「こんなことをしたら母は怒るだろう」とふと思ったり、無意識に都合の良い娘でいようとして苦しくなる事もあった。
その度にカウンセリングで、自分らしく生きて良いんだと再確認している。
初めてのカウンセリングから、もう9年になる。
私のうつ病も摂食障害もだいぶ良くなり、処方薬も減った。
おそらく母の呪縛の後遺症は、一生続く。
それでもカウンセラーがいれば、なんとかなると思える。