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”スタディツアー”がキモいのは

※この文章は『熟考』大好きな拗らせ旅人が書いた自慰みたいな戒めみたいな文章です

最近、私のインスタにめちゃくちゃ「スタディツアー」の広告が出てくる。

で、私はそれがめちゃくちゃキモいなと思う。

いや、でも説明させてほしい。

最初はキモいと思わないの。だってすごく面白そうなトピックで広告を立てているから。

タンザニアとかバングラデシュとか、いかにも普通の人が「旅行」で行こうと思わなさそうな場所を主題にしているところがすごく魅力的。

でも、「『本当の豊かさ』を知る旅に出ませんか?」とか、「人生観が変わる2週間」とか、そういうフレーズを見るとマジでキッッッッッショいなと思う。

だけど、私が旅行に行って、noteに書いてることって、そういうスタディツアーに行って”学ぶ”ような「豊かさとは」とか「日本の価値観って、、、」みたいなことに結構似ている気がする。

そう考えると不思議なのは、なぜ私はこんなにもスタディツアーの広告に嫌悪感を抱くのか、、、

何でだろうなと思ってすごく深~~~く考えた。

で、私のたどり着いた結論は

現地に行く前に、他人から「題目」を与えられて、終始それを意識しながら旅行した結果見つけた「気付き」と、私の『気付き』を同じにされたくない。
そう、私が嫌悪したくなるのは「自発的に疑問・課題を見出さず、結論だけ探してるやつ」を私の、『疑問から答えまでぜーんぶ自力で考えたこと』と同じもののように見なされること、みたいだった。

先述のとおり、私が長期休暇で海外旅行をして、現地で気づく・思うところがあってnoteに書いていることと、スタディツアーに参加した人が帰国後に感じていることは、結果的にそれほど変わらないと思う。

でも、私の場合は旅行前から「幸せの定義を見つめ直しに行こう!!!」とか思っているわけではない。

普通に観光がしたい&その国の暮らしが見たいから旅行している。

私は現地に着いた瞬間から「幸せとは、、、人生観とは、、、」みたいなことを考えて旅しているのではなくて、世界遺産を見たり、観光地からちょっと外れてみたり、色々見て聞いて体験した結果、そういうのにたどり着いているの。

何が言いたいかというと、

そういう「価値観が変わる」みたいなセンセーショナルで哲学的な体験って、誰かにリードされたり、事前にそうなると分かっていたりしたら価値無くない?

「いつも通り」の感覚で生きていて、たまたま何かのきっかけで、偶発的に自分の中で「いつも通り」に疑問が生まれて、自分で考え抜いた結果として固定観念が崩れるのを本当の意味で「価値観が変わった」って言うんじゃないの?と思う。

ハナから「価値観変えたい」と思いながら旅していると、(本当に価値観が変わる、ということもあると思うけど)あんまり価値観が変わる経験をできなかったとしても、こじつけで「価値観変わった」という結論に持っていこうとしてしまう気がして、、、
私はそれはなんとも”商業的で無理やりな、個人的パラダイムシフト”だと感じてしまう。

要するに、私はそういう「与えられた題目によってしか”人生観変わった”と思えない人」に納得がいかない。

そして、この記事を書きながら思ったのは「そういう人になりたくない」という私自身の抵抗心がこの嫌悪感を増幅させている、ということだ。

大人になればなるほど、センセーショナルな経験が少なくなっていく。

私はまだ22歳だけど、それでも最近、10代の頃より『感性』が衰えているような気がして怖い。

経験値によって新鮮だったことが取るに足らないことになって、老いによって?若い頃は気に留めていたことに気づけなくなる。

私が今一番恐れているのは、「私のフィルター」がなくなってしまうこと。

理性的に考えれば、世界で起きている現実は一つだけど、個々人によって解釈は異なっていて、私にとってはその解釈の違いが個々人の存在意義なのだ。

つまり、「私の見方」「私の考え方」が生み出せなくなったら、それは私という存在の終焉だと思う。

だから、「スタディツアー」でしか、世の中について、価値観について考えられなくなるのがキモチワルくて、恐ろしいんだと思う。

そして、だから私は『私のフィルター』を失わないためのトレーニングとして、定期的にブログで文章を書くことにしました。

だからたまにすごーく無理やりなトピックの記事もあると思うけど、自己鍛錬の一環だから、、、許してね(^_−)−☆

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