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【過去記事】日本ラオス初の合作映画「サーイ・ナームライ」がクランクアップ
※本稿は、2015年5月に『ザイ・オンライン×橘玲 海外投資の歩き方サイト』に執筆した内容を、掲載元の許諾を得て掲載しています。
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日本ラオス外交関係樹立60周年事業として2014年5月から始動した両国初の合作映画「サーイ・ナームライ」が先日11月29日にクランクアップを迎えた。今回、私はプロデューサーを務めている。
この企画は、映画産業のないラオスに映画を、日ラオス60周年の友好の証として未来へつなげる作品を、という想いから始動した。
1970年代に日本が手がけたラオス初の水力発電ダム建設計画「ナムグムダムプロジェクト」という史実を題材としている。タイトルの「サーイ・ナームライ」はラオス語で「川の流れ」という意味だ。
映画産業のないラオスだからこそ、映画を
そもそも、「ラオス映画」という言葉を耳にしたことのある人は少ないだろう。インドシナ戦争や内戦のため、ラオスには映画産業が育たなかった。それには内陸国という立地、ラオスと類似文化を持つタイとの関係性がある。
ラオスとタイ語の文法は同じで単語が方言のように異なる程度。テレビばかり見ている子どもの場合、タイ語のほうを先に覚えてしまったという話もきくほどだ。タイ語がわかるラオス国民はタイのテレビ番組ばかりを見ている。そのためラオスメディアにはスポンサーがつきにくい。映画となると予算規模がタイとは一桁以上異なる。
映画館もラオス全国に5館しかない。集客場所が少なければスポンサーにとっての魅力は減退する。産業がなかったところに作品を作ると始めたものの、人材、機材、資金、すべてが不足していた。
撮影はすべてラオスで行なったが、撮影・照明機材とアシスタントスタッフをタイ(バンコク)から調達した。タイはハリウッドから仕事を請けているので機材もスタッフもしっかりしている。
ラオスでは一眼デジ機材しかなく、これではウェブ動画ならよいがシネコンで上映するには厳しい。録音機材は日本人技師が日本より持参。最小装備で臨んだのだが総重量は録音機材だけで150キロ。担当官のご機嫌を損ねてしまったのか、機材が空港に一泊するというハプニングもあった。
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想定外の出来事の連続だったが……
監督をはじめ日本人スタッフは8名で、総スタッフ数40名だった。メインキャストは10名(エキストラは計100名ほど)。日本人俳優は主演の井上雄太を含め2名、ほかはすべラオス人キャストが出演した。
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スタッフ、キャスト含め一度交渉で確約した人材が抜けていくという事態が続いた。「家庭の事情」や「本業の多忙」などが主な理由だった。スケジュール管理が大らかすぎる。しかし、演技は思った以上に上手で、これには日本人監督も舌を巻いていた。
ロケの食費は1日1人当たり7万キープ(約1000円)と現地相場に合わせた。当然ラオス食が多くなる。ロケ地の村や近郊のホテルで作ってもらうも、地方都市ということもあり、今日はもち米と揚げた豚肉。明日はもち米と揚げた鶏肉、明後日は豚肉ラープ(サラダ)、その次は鶏肉ラープ、とレパートリーがない。食については日本人スタッフからのクレームが最期まで続いた。
今回の製作総予算は約3000万円。日本では低予算の類に入るが、ラオスで製作される映画としては過去最高額になるだろう。これまでは130万~500万円規模の作品がラオスでは製作されてきた。
ロケ予算を2000万円ほどに設定していたが、各方面からの見積もりが、日を追うごとに膨らんでいった。村と約束した金額が次の週に倍にあがる。聞かされていない経費が日々耳元に届く。「なんとかならんか?」「なりません」問答が続く。はじめはこの金額でOKと言ったけど、人から話を聞いて「もう少しもらえるんじゃないか」と思ってしまったのか。もともと映画作りの相場なんてものがラオスにはない。
毎日何かが起きていた。撮影は乾期でほとんど雨が降らない時期だったが、撮影初日の夜10時ナイター撮影の時、天から一滴二滴の雫が落ちてきた。残っているカットはあと少しというところでの撮影中止か!?という状況だったが、なんとか持ちこたえてくれた。機材の後片付けが終わった23時過ぎ、大雨になった。
そんな中で、スタッフは最終的に一つのチームになり、クランクアップを迎えることができた。日本で映画の歴史は100年というが、初めて映画を作りだした人たちの周りでもこんなことばかり起きていたのだろうか。
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ラオス映画発展のきっかけとなるか
ラオスの映画産業はまだまだ黎明期だ。ラオスは映画作りの体制を作っていかなければならない。厳しい言い方になるが、今の段階で、ラオス人によるラオス映画を世界へ、というのは非現実的な話だろう。
制作する人々、それをサポートする企業、作品を上映できる映画館が増えていかなければならない。その健全な循環を作っていかなければならない。社会主義の中での表現の自由度も社会として少しずつ広げていかなければならない。
もし、外国の映画会社がラオスで撮影をしたいとなった場合、スタッフとして参加できる人材が現状ラオス人には少ない。ラオスに一流の機材がないということは、その機材の知識を持つ人間もいない。機材のメンテナンスもできない。技師だけに限らずアシスタントもいないことになる。
ロケーションにおいてはデータベースがないので探すのに時間が掛かってしまう。また映画撮影用の料金体系もないので予算管理が難しい。村との交渉は、ビジネス感覚がないから気分で料金が上がっていく。
今回の作品でラオスの作り手たちも、ラオスの問題点が明確に見えたのではないだろうか。これから何をするべきか。映画だけを作るのではなく、産業を興すということは、環境を作り循環させていかなければならない。
今の段階では、外国の映画会社によるラオスでの映画制作(撮影)がその環境作りを進めていく最善の策ではないかと思う。このようなプロジェクトに参加するラオス人が増えていき、経験を積み、収益から機材などに投資をし、産業として発展させていくべきだろう。今回の映画は、そのような企画の第一弾として、きっかけとなって欲しい。
産業のないところにゼロから作品を生み出す。これは思った以上に大きな挑戦だった。そして、本映画は現在、日本でポスプロ(編集、音入れなど)作業を進めている。
ゼロから始まったプロジェクトだが、支援の輪を広げながら、初めての日ラオス合作映画として、多くの方に劇場で観てもらいたい。公開はラオス先行で2016年5月を予定している。日本公開は2017年初めの予定。
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