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映画*土を喰らう十二か月を見て

最初の数分で引き込まれた。
その「間」のとりかた。
映像の丁寧さ。
お茶を出すしぐさ。
あぁ、これはきっと美しい映画だろう

そう感じた。

そして、その美しさは決して裏切ることなく、
最後まで美しく、
丁寧に、
日本の美し”かった”ところを書き続けてくれた。

「かった」
そう表現したのは、この映画をみながら、これが美しいと思える時代は終わりを告げようとしているようにも感じるからだ。
了解しました。を「りょ」の一字で表す時代。
無駄をなくしていく時代。
マッハの中にさらに加速度を増して生きていく現代には、この映画の世界感は不要とされる部分のような気がしたからだ。

いや、私は別に今の時代を否定しているわけではない。
それは時代の流れなのだ。
時代は変わるものだし、それによって得られる恩恵もある。だから今の時代を憂う気なんてさらさらない。

くしくもこの映画の中でも言っている。
「人は結局は自分ひとりなのだ。自分と向き合うしかないのだ」
と。
時代がどうなろうと、自分が自分とむきあうだけでいい。
「今日一日生きてありがとう。」
この映画の一つのテーマともいえるこの言葉はまさにそういうことなのだと思う。
もし私自身が、今を懸命に生きていたら、時代を憂う暇などない。
自然の中で身土不二に生きるということはそういうことなのだろう。

映画概要

さて、以下は若干のネタバレを含むかもしれないので閲覧にはご注意いただきたいが、この映画は信州の山に一人住む作家のツトムが「土を喰らう十二か月」というタイトルのエッセイを書くこととなり、その季節のものを二十四節季の移り変わりとともにいただく形で進んでいく。

そこにエッセンスとして加えられているのが、真知子という担当編集者。
ツトムの恋人としてパンフレットなどでは紹介されているが、恋人のようなそうでないような、関係。

美しい器と料理・身土不二

映画序盤は余すことなく日本の美しい世界観を丁寧に書いている。ツトムは小僧としてお寺にだされた幼少期の経験から、そこで覚えた精進料理の技術をベースに料理をつくる。どれも野山でとってきたものに、家の前の野菜を加えたその季節の一番おいしい料理だ。
見ているだけで満足感を味わえるほど美しい
料理の数々
そして、ツトムのたんたんと料理をする姿がなんともかっこいい。

「皮を捨てるなんて一番おいしいところを捨てるようなものだ」
そう教えられたというツトムの料理はどれも自然を感じる料理ばかり。土を喰らうとはよく言ったと思う。
話は変わるが、先日スリランカ人にカレーを作ってもらったとき、ナスからうま味をとると言い料理をはじめた。その時の一言がまさに同じ考えであったのには驚かされた。
「ナスは皮と皮の間に一番うまみと栄養が眠っているから、すてるなんてとんでもない。ピーマンも種からうま味がでるから、捨てるなんてもったいない」
国は違えど野菜の本当のうまさは、すべてを頂くことにあるのだろう。なんでも皮をむくのが当たり前になっている現代。土が汚いものという認識ができてしまったのはなぜなのだろうか?土を喰らわなくなったのはなぜなのだろうか?

生きるということ死ぬということ

さて話が少しそれてしまったが映画は中盤から少しテーマをかえる。いや正確には変わっていないのだけれど、よりダイレクトに訴えかけ始める。
そのテーマは生と死
親族の死とツトム自身が倒れた事を機にそのエッセンスが増えていき、話がどんどんと自分へと向かう。
山の中で一人暮らすツトムが自然の中で感じた生きるということは・・・

、、、その答えは是非映画をみて感じてほしい
と締めは深く書かずにこのあたりで終えることにしよう。

映画の帰りに

さて、プロローグは直接映画とは関係ない話。映画を見に行って感じた話。

映画館での鑑賞はあるいみ危険。
前回RRRを見に行った時もそうだったのだけれど、両隣に知らない人が座る危険が映画館には潜んでいる。
RRRも土を喰らう十二か月もそんなに人いないだろうと踏んで見に行ったのだけれど、これが大間違い。
満席に近い鑑賞となってしまった。
私は映画は一人でその世界に没入したいタイプなので、両隣に人がいると映画の評価が半減してしまうのだ。
しかも今回、両隣にすわったおじさんが携帯の電源を切らずアラームはなるし、一人はしょっちゅう液晶を光らせていた。さらにうしろのおばさんがことあることに隣のおばさんとペラペラ話してたなんて残念なフォーメーションに組み込まれてしまった。
こんなことで人は集中を切らすのだと、改めて学ぶこととなった。
それにしてもこの映画を見ながら何を感じ取っているのやら・・・と残念に思う。いや思う必要もないのだけれど、まだまだツトムの域にはいけてないのだと再認識

さらに帰りに立ち飲みバーに行ったらそれがまた最悪。
いらっしゃいませもない、料理をだすのに一言もない
そんな接客の店にあたってしまった。
5分でその店を出たのだけれど、
「あぁ、これもまた人だよな。」
と一日で両極端の世界観を感じることができた。それもまたそれと言いつつ怒ってしまう自分がいる

人というものはなんとも難しいものである

まだまだ修行が必要なようだ。

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