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『台湾生まれ 日本語育ち』を読んで

こんにちは、Mikiです!自己紹介はこちら

『台湾生まれ 日本語育ち』という本をご存じでしょうか?
台湾人の父母のもとに生まれ、幼少期に日本に来て育った温又柔(おん・ゆうじゅう)さんのエッセイです。帯にある「我住在日語(わたしは日本語に住んでいます。)」という言葉にも惹かれ、手に取りました。ちなみに今回のサムネイル画像です。

  実はこの本を読み始めたのはもう5,6年前。地球一周の船旅の後だったと思います。
  私は幼い頃から中文(ちゅうぶん;中国語のこと。私が中文という表現を使う理由はこちら)に触れながらも、日本人でしかない自分の中の「台湾要素」を求めてもがいてきました。そんな私にとって、あまりに惹かれるタイトルだったのです。そしてあまりに自分事で苦しい内容だったのです(もちろん私は日本人の父がいて日本パスポートしかない、など温又柔さんと全く同じ立場というわけではないですが)。
  そのため当時は半分くらいまでしか読めませんでした。でも今は違います。「台湾人になりたかった」というタイトルのnoteで自分のこれまでの葛藤やアイデンティティ形成について振り返り、自分と向き合うことができるようになってきました。今回『台湾生まれ 日本語育ち』の中で、自分と共通するところ、異なるところ、大切にしたいことをたくさん見つけながら最後まで読むことができました。
  温又柔さんの言葉をお借りしながら、私Mikiのコトバについて語ることができたらと思います。

※引用元が1冊の本のみなので、出典には書籍名『台湾生まれ 日本語育ち』白水社 の代わりに目次を記載しています

失われた(?)中文

p.17 自分が中国語を忘れつつあることがさみしかった

Ⅰより「なつかしさよ、こんにちは」

p.32 自分の体の底にはたっぷりと中国語が眠っているのだと信じていた

Ⅰより「眠る中国語」

  1歳から2歳頃、私は台湾の保育園にいたそうです。母が言うには、先生が何を言っているのかも理解してすごかったのだとか。当の私は幼すぎて当然覚えていません。
  3歳頃にはすでに日本に来て幼稚園に通い、小学校に上がった頃には私の母語は日本語になっていました。もちろん中文の簡単な単語や表現は知っていましたが、日常生活のほとんどを日本語が占めていました。
  今でも覚えています、「Mikiは中文忘れちゃったのね」と母に言われたことを。子ども心にとてもショックでした。自分が中文を「話せなくなった」こともそうですし、自分が中文を「話せない」ことで母にがっかりされたこともそうです。
  私の場合は「中文を忘れた」ことさえ幼すぎて記憶に無いのですが、生活の中でどんどん中文を使わなくなっていったのは事実です。

中途半端な中文

p.131日本人にしては上手、台湾人にしては下手

Ⅲより「永住権を取得した日」

  失われた(?)中文を取り戻そうと、私は必死でした。中学生頃から「中文で話して!」と母に頼んだり台湾短期留学に行ったり、通訳アルバイトをしたり。
  そうしてできあがったのは中途半端な中文。”日本人にしては上手、台湾人にしては下手”な中文です。
”日本人にしては上手”なのは発音で、ありがたいことに、褒められることがとても多いです。
  ネイティブの人はもちろん中文の先生にも「どうしてそんなにきれいな発音なの?」と聞かれたことは一度や二度じゃありません。母が台湾人で…と話すと大体納得されますが、しばらく中文を避けていた時期があったせいなのか、はたまた勉強していくうちに耳が肥えたのか、個人的にはやっぱりまだまだネイティブではないんですよね。

p.241 あらゆる意味で中途半端な自分の中国語にたいして劣等感を抱き、台湾人である親戚の前でヘンな発音をしてしまわないかとためらう傍らで、…(中略)
台湾では、妹よりもわたしのほうが中国語をじょうずに話すとみんなが褒める(「外国で育ったわりには」という条件付きだけれど)。

Ⅴより「終わりの始まり」

  ”台湾人にしては下手”なのは語彙や文法の理解。まだまだネイティブレベルには届きません(事実CEFR(外国語運用能力の国際標準)では上から3番目、下から4番目のB2(高階級)相当で、会話に困ることはあまりありませんがネイティブ(C1,2)との差は大きいです)。ネイティブ寄りな発音のおかげで「この人話せる!」と思われるのは誠に光栄なのですが、すごい勢いで話しかけられて聞き取れないとテンパるし、嬉しい反面恥ずかしいというか悔しいというか、すごくもどかしく感じます。

  私の中文は、日本人にしては上手い発音、台湾人にしては不足した語彙・文法知識で成り立っているのです。

  そのため"外国=日本で育ったわりには"上手いけれど、"中途半端な中文に劣等感"もあるし、"台湾人である母や親戚の前で変な発音をしてしまわないかためらう"こともしばしば。

”隔世遺伝”された日本語

一方で私の日本語は読み書き・会話ともにネイティブレベル、というか母語です。

p.206 「國語(guó yǔ)」に翻訳された「玉蘭花」を見つめていたら、隔世遺伝、というコトバが浮かぶ。祖父や大伯父の日本語が、一代跨いで、わたしに「遺伝」した。

Ⅴより「失われた母国語を求めて」

  そんな私の日本語はもしかしたら、温又柔さんの言葉を借りると、"隔世遺伝"なのかもしれません。
  台湾人である母の母語は中文ですが、今は亡き母方の祖母は、幼少期に日本語で教育を受けていました。生前は私の拙い中文に対して「分からないから日本語で話して」と言うこともありました。「自分の中文が通じなくて悔しい!」と感じたこともありましたが、今思えば祖母は中文より日本語のほうが得意だった、ただそれだけのことだったのかもしれません。母が祖父の大反対がありながら日本人の父と結婚できたのも、そこに生まれた私が日本の友だちを台湾の実家に連れて行くことができたのも、日本語で会話できる祖母のおかげだったのかもしれません。
  母の母語である中文が話せないことに負い目を感じてきたけれど、祖母の言語は日本語。私の母語は祖母の言語と同じ”一代跨いで、わたしに「遺伝」した”
…なんて素敵な考えなんだろう。心がポカポカと暖かくなり、自分の母語『日本語』をもっと大切にしようと思えました。

私のコトバ

  私には日本人の父がいて日本のパスポートもあって、温又柔さんとは背景・生い立ちは異なるけれど、台湾人の母がいて、日本語が堪能な祖母がいて、"日本人にしては上手で台湾人にしては下手な中国語"と、ネイティブレベルの日本語を話します。

p.244 母語は唯一のものであるはずだ、という暗黙の了解が、特に日本では非常に強固だと気づかされる機会が多々あったのだ。

Ⅴより「終わりの始まり」

日本語、中文、台湾語のどれもが母語です。そう気付けたのは、『台湾生まれ 日本語育ち』を読んで、"母語は唯一のものであるはずだという暗黙の了解"があったことに気付かされたからです。

  私はこうして文章を書く時には特に、日本語が一番使い勝手がいいです。だからと言って日本語だけが母語じゃない、少しだけ含まれている中文や台湾語も母語と言っていいんだと、温又柔さんのおかげで思えるようになりました。

p.287 這便是我的語言,不,這語言就是我。これがわたしのコトバだ。いや、このコトバがこのわたしなのだ……

Ⅵより「生い繁ることばの森へ――『我住在日語』刊行をめぐって」

  私が頑なに母国語ではなく母語という表現を使うのも、母国はどこかと聞かれた時にうまく答えられないからです。
  日本が母国なのか台湾がそうなのか、どちらもそうなのか。どこにいてもここじゃない感じがします。
  それでも私のコトバは日本語、中文、台湾語で、”このコトバが私”なのです。

p.276 わたしは、何も、失ってなどいなかった。
わたしのコトバは、はじめからずっと、ここにあった。

Ⅵより「「ママ語」で育ってよかった!――日本エッセイスト・クラブ賞受賞のことば」

(この言葉にすごくすごく救われたのと、今回のこの記事のまとめにピッタリ過ぎてそのまま引用しました。読んだ時は大号泣、今も目頭を熱くしながら書いています。)

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