時は未来から流れている。在りたい私とnoteについて思うこと。
昨日でnote連続投稿5日を達成した。たかが5日、されどわたしにとっては大きな一歩である。三日坊主、いや三日坊主になることを見越して毎日投稿なぞ目標にしたこともなかった、それが私だったから。背中を押してくれたコーチや仲間の存在にはもちろん感謝だけど、実際パソコンを開いて5本の記事を具現化したのは他でもない私自身。まずはちゃんと自分を認めてあげようと思う。
と同時に頭の中によぎるのは、このまま毎日やっていける?
出た、セルフダウト。
「現実的に考える」といえば聞こえはいい。でも捉え方によっては、今までの私がこれからの私を決定しているともとれる。
今までこうだったから、その延長線上の伸び代しか見込めない。
はたしてそうなのかな?
と思ったところで、昔ある本のなかで読んだことを思い出した。
時は未来から流れている。
自分が過去にどうだったか、どんな失敗をしたかは関係ない。未来のありたい姿から逆算していけば今どうすればいいのかが自然とわかる、という内容だったように思う。
この、時は未来から流れているという発想に、社会人2.3年目の私は驚き、希望を感じたのを覚えている。当時の私はといえば、挑戦したいことや夢はあるのに、これまで経験したうまくいかなかったこと、失敗したこと、途中で投げ出してしまったこと、そういう積み重ねがいかに自分がダメな人間なのかの証拠のように思えていたから。
あれから10年近く経ち、今の私はまた違った環境や視点とともに、この未来から流れる時について学んでいる。
Be. Do. Have. 何よりもまず在りたい自分に今なる(Be)。その在り方で行動していくこと(Do)によって、在りたかった姿や結果を手に入れる(Have)。
在りたい自分だったらどうするか。その視点に常に立ち、実際手を動かし行動していく。当然、今までの自分の習慣や考え方の癖に引っ張られてしまうこともあるけれど、それも人間として自然のメカニズムだと知ったから、そこで投げ出してしまうことなく、また改めて「在りたい姿はどうだっけ?」というところに戻ってくる。毎日自分を観察し探求している感じの毎日である。
だからね、最初の部分に戻ると、このnoteについてはまず42日間は毎日続けようと思うのだ。できるかな、じゃなくて、やっていくんだよね。
(42日というのは、人が何かの「型」を学ぶのに良いとされる日数なのだそう。)
同時に、「こういう記事を書かなくちゃ」をもっと手放してみようとも思う。何文字以上は書かないと。最低限読むに耐えうる文章や構成になっているか。面白いものが書けているか。そういうのは、特に今は置いておいて、自由に今表現してみたいことを書いてみよう。どんな自分も許せる、それも在りたい私の一つだから。